PK

伊坂幸太郎

1320円(税込)

勇気の力

都甲幸治

 子供に恥ずかしくない生き方とは何か。中篇三本の緩やかな連作である本書で伊坂幸太郎は問いかける。純文学の問いとしてはあまりに直球過ぎるのではないか。そのとおりである。それは伊坂自身十分に意識している。作品に登場する作家は言う。「いや、以前にね、前向きな台詞で終わる小説を書いたところ、批評家に、青臭いと笑われたのだ」。それでもなぜ青臭さを選ぶのか。時代が要求しているからだ。

 本書で描かれる日本は暗い。たとえばそれは満員電車で表される。「無愛想で、無表情、心は通っていないが、チームワークが発揮されている」。愛情も喜びもないが、効率は最大限になるよう調整された人間関係が膨大に組み合わさり組織を作りあげている。組織がどちらを向いているのか、何をしようとしているのかは誰も分からない。ただ確かなのは、時に圧倒的な非人称の力で個人を押しつぶす、ということだけだ。

 いつ失言して転落するかわからない。新たな局面を開こうと冒険をして、その結果失敗したら後がない。だからみな臆病になる。漠然とした、確実に見えない恐怖に窒息させられる。「臆病や恐怖は伝染するんだろう。一人が挫ければ、恐怖にしゃがみ込めば、隣の者もそうする。それがどんどん連鎖し、誰も未来に期待できなくなる」。

 だからこそ、大臣は嘘の証言をすることを迫られ、サッカー選手は勝利のかかった大事な試合で、PKを外すことを正体不明の男たちに求められ、作家は誰だかわからない背広の男に、作品を薄っぺらにするような書き直しを命じられる。彼らは誰なのか。一体誰の意思でそんなことが命じられたのか。そもそも理由はなんなのか。いくら本作を読んでも、それらの問いには答えがない。隠されているのではない。そもそも実行している者も、彼に命じた者も、またそいつに命じた者も、誰も答えなんか知らないのだ。

 タイムトラベルとか平行世界とか未来予知とか、本書では軽いSF的仕掛けが使われている。なぜか。現実の日本が、すでにSF的な状況に陥っているからだ。したがって伊坂幸太郎の本作は、言葉の本来の意味でリアリズムである。かつてピンチョンは『ヴァインランド』や『競売ナンバー49の叫び』で、パラノイア的な闇の組織と、元ヒッピーや主婦など一般人の闘いを世界的な規模で描いた。今となれば、権力とカウンターという構図で考えることができたピンチョンは牧歌的にも思える。もちろんピンチョンの文章は稠密かつ祝祭的で、伊坂幸太郎のそれは軽い。だがそのことは、伊坂の世界認識の浅さを意味しない。むしろ事態は正反対だろう。

 ピンチョンのような重厚長大な世界を文章で作りあげることにより、世界の悪と対抗できると信じられた時代がかつてあった。だが遥かに重く、息苦しくなった現代、フーコーの語る生政治が高度に研ぎ澄まされ、どこにも出口が見えない時代において闘うには、フットワークは軽く、文章はわかりやすく、仕掛けは単純でなければならない。そうでなければ、権力にすぐに追いつかれてしまうだろう。愚かで素朴で素早いこと。伊坂幸太郎の戦略は、見た目ほどシンプルなものではない。

 組織のメッセージとは一つしかない。全体のために個は犠牲になるべし、である。「密使」で世界を疫病の蔓延から救うため、過去の世界にゴキブリが一匹送りこまれる。これで多くの命が助かるわけだが、一つだけ問題が起こる。歴史が改変された結果、どうしても特定の人物が死なねばならないのだ。彼は施設に隔離され、理由をきちんと説明された上で死を待つことになる。「『一人の人間の絶望により、大勢が救われるのであれば』私は何度も言い聞かせようとした。『それで良いのではないか』と。理屈としては理解できた。が、『その一人が、自分であること』の恐ろしさは受け入れがたい」。

 最大多数の最大幸福というベンサム的な論理は、犠牲者が自分となったとき破綻する。過去アーシュラ・K・ル=グィンが「オメラスから歩み去る人々」で提起した問題が、伊坂幸太郎において先鋭化される。なぜこれが受け入れられないのか。それは、組織にとってお前はゴキブリと同じだ、という命題を自分で受け入れることになるからだ。カフカの『変身』におけるグレゴール・ザムザと同じように。

 だから「超人」におけるテロリズムは「害虫駆除」と呼ばれる。予知能力を持った若者は、殺人を起こすだろう人々を駆除して回る。それは正義なのか。そして正義は過ちを犯さないのか。害虫とされた人々を抹殺することで、消え去る声とは何か。

 絶望の悪循環を断ち切る手だてはないのだろうか。ある、と伊坂幸太郎は答える。恐怖と不安に打ちひしがれることなく、勇気を示すことだ。これまた素朴な、と呆れる人もいるだろう。だがそれは、単なるきれいごとではない。証言を拒んだ大臣はスキャンダルを暴かれ、社会的に抹殺されるだろう。PKを成功させた小津選手は非業の死を遂げる。事故なのか殺人なのかは誰にもわからない。そして書き直しを拒んだ作家にも、幸福な人生が待っているとは思えない。それでも、と伊坂は言う。「子供たちに自慢できるほうを選べばいいんだ」。この素朴さはなかなか手ごわい。

 かつて大臣は、マンションのベランダから落下した幼児を両腕で受け止め、救ったことがある。大人になった彼に再会した大臣は言う。「この二十七年間、あなたに、『ああ、こんな男が自分の命を救ったのか』とがっかりされては寂しいからね、そうならないように必死だったんです。(中略)だから、本当に感謝しています」。本作品中でも最も美しいシーンだ。そして大臣が世界に押し潰された後も、この言葉は青年の中で響き続けるのだろう。この一場面のためだけにでも、本書は読まれる価値がある。