秋田さんの卵

伊藤たかみ

定価(税込):1,470円

短絡的な男たちの無垢

伊藤氏貴

 表題作と「ボギー、愛しているか」の中編二作を収録。ともに、青春はとうに去り、しかし自分を中年とは認め難い男ども(最近急激に迫り出してきたこの世代を評するに、「アラサー」「アラフォー」とかいう形式主義を脱したうまい言いまわしはないだろうか)の「男はアホだ。」「男は、サイテーで、そして、男は、サイコーだ。」というどこぞの缶コーヒーのコマーシャルを超ロングバージョンにしたような物語たち。とりわけ「ボギー」にその色が濃く、中高六年間を男子校で過ごした私は何度も膝を打って哄笑した。


 飯島は、気にしていないつもりではいても、以前妻が犯した不貞を折に触れて思い出してしまい、義母と妻との家族旅行が近づくにつれ帰宅恐怖症となり、友人の加藤のところに入り浸る。離婚歴のある売れない作家で、飯島とは中学高校の同級生である加藤は、ボギーの二十万円で売春島と呼ばれていたW島に行こうと提案する。もう一人の中学の同級生ボギーは十九歳のとき、死んでW島の海岸に打ち上げられた。


 ボギーとあだ名されていた保木は、左手の中指と薬指を農具に食われて失っており、飯島や加藤からなにかと馬鹿にされていたが、それを親愛の情だと勘違いして二人にまとわりついていた。「やりまん」と噂される同級生の女子に一途に恋をするが、ボギーだけは相手にされず、何度もアタックしてはふられ、それでも他の女に目を移すことなく恋しつづける。加藤は、母親の愛人を憎んでいたボギーから金を巻き上げ、飯島と一緒に愛人を襲い、脅して街から追い出す。金額は計二十万円に達していた。それを今使おうというのだ。売春島でそれを使い果たすことが、おそらく童貞のまま死んだボギーに対するなによりの弔いになるのだ、と。


 発想も行動も絵に描いたように短絡的だ。男ってやつはまったく……と深く納得。


 浮気は許している、そう自分でも納得している、と思う。しかしなんとなく体が家に向かない。誰彼構わず仕事帰りに飲みに誘ったり、加藤の家に押しかけたり、漫画喫茶で時間をつぶす。漫画喫茶には似たような帰宅恐怖症の人たちがいっぱいいる。中には、他にアパートを借りることによってはじめて帰宅できるようになる、という人もいる。対等な共働きであっても、家は基本的に妻の領域、という感覚がなんとなくまだ残っているのだろう。どこかに自分独りだけのスペースを持たなければやってられないのだ。


 そのくせ飯島は独りの時間になれば、妻がこっそりつけているブログを盗み見し、他人名義でレスを返し、あまつさえ嘘の日記を書いて、そこから妻と交流を図ろうとする。全くの創作は難しいので、ボギーになりすまし、彼が生きていたらということで日記をつけるうちに、ボギーが考えていたこと、感じていたことに深く入り込むようになる。


 ちょっと堅苦しく言えば、ここで描かれているのは、ボギーへの同化を通しての救済である。文学の正統的な伝統に則り、ボギーは聖性と劣性を同時に帯びる両義的存在だ。指の欠損はその証、つまり聖痕(ステイグマ)だ。


 ボギーは、みなから軽侮されつつ彼らを疑わず友情と愛情とを尽くし、童貞のまま死んでゆく。わかりやすいイコンだ。そして彼の死によって飯島と加藤はある種の欠損を感じる。三人のうち一人を失った彼らは、五本の指のうち二本を失ったボギーのように、以来ずっと欠損を抱えて生きてきた。だからこそ加藤は突然のようにW島を思い出すのだし、飯島は妻と二人の生活のなかでもぽっかりと穴の空いた自分の心に気づいてしまうのだ。


 そればかりではない。二人はボギーを憧れてさえいた。愛に値しないような女にふられつづけ、なおかつ愛しつづけられる彼の純粋さに。もちろん自分たちがボギーのようになれるわけはない。その純粋さはあたかも子どものもので、二人にとっては青春と同じく過去のものだ。そのまま行けば、いつか悪にめざめることもあったかもしれないが、ボギーはずるいことに無垢のまま死んでしまった。つまり聖者になった。


 そして飯島は、そのボギーになりすまし、「ボギーの日記」を書くなかで彼の思考や感情のあとを辿ることにより、いわばその信徒になる。かつて軽蔑していた相手を崇拝するようになるのだ。ただ自覚はできていない。「飯島よ。ボギーはいいなあ。あの男は別格だったなあ。俺たちのように無様じゃない。ちょっと神々しかったよな」という加藤の方がよっぽど自覚的だが、それに対して「わからんわからん。もうわからんでいい」としか答えられない。しかし、「それにしてもどうしてこんなに好きになれるのでしょう。自分でもわかりません。女というのもわかりません」という日記を、妻に向けて書くとき、飯島はボギーの助けを借りて、再び妻を愛すべくたしかに救われようとしている。


 結局、妻の気持ちはよくわからない、自分の内面の底にも行き着かない。加藤と一緒に島まで行って酔っぱらうしかない。バカだなあ。でも、友だちがいて、取り返しのつかない昔を思い出しながらバカができる。それが男の幸せだ。という月並みな結論がこれほど素敵に思える物語もそうそうない。


 もはや表題作について詳しく語る紙幅はないが、こちらも男たちが、女をめぐってあれこれと思いを巡らす話である。


「男って~」「女とは~」という物言い自体がセクハラにあたる現在、この二つの典型的なホモソーシャルな小説にはそちらの方面からの批判もあろうが、そんなことは当の飯島たちは気にすまい。冒頭に引いた缶コーヒーのコマーシャルでも、これを女バージョンでやったら非難囂々ですぐ打ち切りになるに決まっているのに、男はどんなにバカにされてもそれ自体を「サイコーだ」と思ってしまうらしい。かくて〈真の男女平等〉などというものは訪れる見込みはなく、男はこれから女にバカにされつつ生きるようになるのかもしれない。それでも、男どもは「わからんわからん。もうわからんでいい」と許してしまうのだろう。