会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって

伊井直行

定価(税込):2,520円

小説家による方法の冒険譚

富岡幸一郎

 本書の連載が「群像」で始まったとき、これは一体何だろうと思った読者も少なくなかったのではないか。冒頭はベランダの柵にとまっているヒヨドリの話である。《鳩よりは小さく雀よりは大きな全身灰色の鳥が、ベランダの柵にとまり、やせこけたブルーベリーの木についた花を嘴でつついていた》


 一瞬これは小説、創作なのかと思いきや、著者は「会社員小説論」をここで展開したいという。《会社とは何か、会社員とは何か、という「謎」について考えるためである》


 ベランダで動いているもの。「全身灰色の鳥」。ヒヨドリという名前が頭に浮かぶが、それが「正しい」かどうかは「後でネット検索」して確認できる。固有名詞はそれでいい。しかし「会社」あるいは「会社員」を調べるとどんな説明があるのか。むろん、会社なりサラリーマンの歴史的発生や経済的・商法的な説明はあるが、著者の目ざすものは全く異なる。


《「普通のサラリーマン」とは、現代日本における凡庸な人生の代名詞である。少なくとも二十一世紀の始まりの時期まではそうだったはずだ。(中略)だが、そこに解くべき謎があることについて、私は強い確信を抱いている》


 少くともふたつの「謎」があるという。ひとつは「普通のサラリーマン」と呼ばれてきた人々、彼らが勤める「会社」は、あたかも自明の存在のように受け止められてきたが、よく見つめてみると、そこにはきわめて興味深い「謎」めいたものがある。サルトルの『嘔吐』の主人公がマロニエの木の根を凝視しているうちに、それが当り前の木の根ではなく、どろどろとした異形のモノに変容するように、会社や会社員と「普通」にいわれていたものは奇妙な途方もない何かとして生成しはじめる。それは近代社会のシステムや資本主義の制度が根底から崩れ出している今、とりわけ「解くべき謎」となって露呈しているのではないか。


 もうひとつは文学がこれまで会社や会社員を作品の中軸として描くことをほとんどしてこなかった事実である。それは近代文学の出発点からの欠落であり、そのことに作家は無自覚ではなかったか。


《近代小説においては、仕事や労働を前景化する小説はマイナーな存在とみなされるのが通例だった、と。中でも、会社勤めをする人間の労働については、無視することが暗黙のルールだった》


 本書でも梶山季之『黒の試走車』、楡周平『再生巨流』、津村記久子「アレグリアとは仕事はできない」、長嶋有「泣かない女はいない」、源氏鶏太「英語屋さん」等の小説が俎上にあげられ、経済や会社組織やそのなかでの人間関係がどのように描かれてきたかが論じられているが、それは文学の序列ではあきらかにマイナーなものと見なされてきた。また著者がその作家としての出発以来こだわってきた「会社員小説」とは微妙にかつ本質的に違う内容でもある。いや、そうした先行する作家の営みを著者が様々な角度から分析し論じることで、自らが目ざそうとする文学の領土を一歩一歩踏み固めていこうとしているのだ。


 庄野潤三の「プールサイド小景」は、戦後の日本が経済成長を遂げていく過程で、次第に自明のものと化していく「会社員」の存在に、文学の側から投じた決定的な異化の問いであり、著者がここからさらに時代の変遷を経て自らが立とうとする場所がよく見えてくる。


《小説家の多くは、会社や会社員の存在が社会全体の中で大きくなっていく高度経済成長期以降の時期にも、会社や会社員を正面から描こうとはしなかった。小説の主題として、それが有利なものでないことを、小説家は知らぬ間に知っていたのである。しかし、小説家の多数派の無意識的な賢い選択の結果、文学は社会の新しい重要な部分を看過し、ブランクのまま残すことになった。もし、それが描き得ないものであるとしたら、ここには文学の限界が存在することになる》


 逆にいえば、伊井直行は「文学には限界は存在しない」ことを証明し実践しようとしているのである。本書の後半では黒井千次や坂上弘の文学が射程に入れられ、会社員の実体験を持つ作家がどのようなかたちで「会社」と「会社員」を描いたかが論じられ、さらにカフカの「変身」、メルヴィルの「バートルビー」の詳細な分析が展開される。「変身」のグレーゴルは、《家庭に、会社員のまま――自然人ではなく法人として――目覚めてしまった》主人公として捉えられる。その批評はカフカが真に何を描こうとしていたかを強烈に印象づける。


《家庭では会社員―法人は異物であり、その異物性が「甲虫」として表現されている》


 著者が文学として「会社員」を主題化し描くことのなかにあるのは、生活人としてごく普通に存在するわれわれのなかに潜む、この自然人と法人の不可避的な分裂と合一の劇であるといってもいいだろう。


 折りしも四月に講談社文芸文庫から著者の「会社員小説」の代表作を収めた『さして重要でない一日』が刊行された。「彼」という人称で展開される「さして重要でない一日」を本書と並行するように再読しながら、評者は不思議な慄然とするような感銘を受けた。作中の一節に、失敗コピーが山積みになっている会社の自分の机に戻って次のように考える場面がある。《記憶に頼ってやっても間違えることはなさそうだったが、コピーの一冊一冊の脱落ページをチェックして表をつくることにした。こういう〈ちゃんとやっても褒められるどころか顧みられることさえなく、ドジを踏めば、この場合は正確にマイナス評価を与えられる仕事〉に、何か名前はついていなかったかと彼は考えた》


 この名づけえぬものを語ること。語りえぬものを語ること。文学の言葉はつねにこの「限界」を越えていこうとするものであり、本書は小説家によるその不穏な冒険譚の面白さに満ちている。