嵐のピクニック

本谷有希子

1430円(税込)

ポストモダンの掌編集

筒井康隆

 ただいまより本谷有希子『嵐のピクニック』を読んでまいります。ほんとは「群像」掲載時に一度読んでいるのだがそれを忘れ、読んでいくことにします。

 まず最初の「アウトサイド」を読んで、馬鹿な娘だなあと思うような人の多くはそもそも現代文学などあまり読まないような人だろうし、この娘に共感する人は人間の学習能力や潜在能力の凄さをよく心得ている人たちであろう。短篇連作の最初にこの少女の凄みを持ち出してきたのは効果的だ。読者を選別する意志も読み取れるし、この反逆の心地よさに似た快感を続く短篇で味わえるだろうという期待も大きい。

「私は名前で呼んでる」は、うって変ってキャリア・ウーマンにとっての負の感情が描かれる。幼児的な退行の原因らしきものも書かれてはいるが、誰に、いつどこで起ってもおかしくないパニック障害だ。共感を餌にして引っぱりまわされるのは読者の快感だが、作者にとっても快感であろう。このゲシュタルト崩壊の爽快さはすばらしい。

「パプリカ次郎」の場合は、書かれているような、不条理な天災をついには尊敬するという寓意を読み取らない方がよいのではないかと思う。ありのままの奇妙な話として受け取れば、不可解な部分も味わえるし、腑に落ちるのだ。突拍子のなさは充分楽しめる。ロシアの若手作家によるポストモダン小説のように読めた。「人間袋とじ」は、しもやけを利用して足の小指と薬指を癒着させようとする痛みと痒みが、床暖房の暖かさで増幅され、それが読者にまで伝わってくる気色の悪い話。小指と薬指にそれぞれイニシャルが彫られている男女の関係があと押しされ、肉体と神経の乖離が快い。

「哀しみのウェイトトレーニー」の冒頭、しばらくしてから突然会話文が地の文になり、主人公が何やら決意した様子なので、おや、ここから幻想の世界に入るのかなと思ったのだがそうではなく、そのかわりにトレーニングを始めた彼女の肉体が、幻想的に、といってもいいくらい劇的に変化する。すべてヒロインの幻想だったという結末にしてもいいくらいだが、珍しくもハッピーエンドで終る豪快な作品だ。

「マゴッチギャオの夜、いつも通り」は、下から目線のSFである。人間の子供並みの知能を持つゴードンは他のチンパンジーと馴染めず、ニホンザルの猿山に入れられる。この設定がすでにSFであり、彼が最初猿山にやってくるところはすぐれたSFによくある雰囲気が横溢していてとてもいい。語り手であるニホンザルのマゴッチギャオはそんなゴードンと仲良くしようとするが、知能のないニホンザルに興味のないゴードンは自分の境遇に絶望していて、死にたいと願っている。だがニホンザルたちはゴードンにない超能力を無自覚のままで持っていたのだ。結局動物としていちばん低劣なのは猿山に花火を投げ込む人間たちなのだった。

「亡霊病」はおっかない上にたいへんな迫力だ。どんな原因による病気なのかという解説もないまま破局に突き進んで行く。誰もが、ただただあっけにとられるだけの読者になってしまうのだから凄い力技だ。「タイフーン」は掌篇ファンタジイだが、ここまで読んできて、この本に収録されている十三篇すべての趣向が異なり、同工異曲の作品がないらしいことに感心してしまうのだ。つくづく一気読みすべき本じゃないなと思う。読み飛ばしたらあべこべにぶっ飛ばされてしまうだろう。「Q&A」まで読んできて、一方で有名な演劇人でもある作者は、舞台ではできないことのすべてをやろうとしているのだと気がついた。この「Q&A」は、これに似た人生相談をテーマに、小生が書こうとしていたことでもあった。これを読んで書く気が出てきた。すべての短篇について言えるのだが作家に対しても挑発的な作品群だ。

「彼女たち」は突然女たちがそれぞれの男たちに決闘をしかける話である。主人公の青年は決闘の末、恋人に勝って殺してしまうのだが、どうやら彼女はわざと負けてくれたらしいのだ。これがいちばんよくわからない作品だった。自分以外の女に心を向けるようなら決闘して殺すか死ぬかしてしまいたいというような願望が女性にはあるのだろうか。決闘する場所を決めるため歩きまわるところは、まるでセックスするために人目につかぬ場所をうろうろ探すような、夢でよく見るあの感じに似ていた。

「How to burden the girl」も女が戦う話だが、今度は昔の安達祐実ちゃんみたいな可愛い女の子が長刀を振りまわして悪の組織に応戦する。隣に住む語り手の三十四歳の男に、少女が身寄りをなくした自分のつらさをわかってもらうために、男の老いぼれた父親を誘惑しろと自分の論理で迫るのがムチャクチャで面白いが、ここまで読んでくると、これだけ変な話をいくつも、よくまあ思いつくものだと感心するほかない。

「ダウンズ&アップス」で、やっとドラマらしいものが出現する。デザイナーというありふれた職業を異化しているのだが、役者に演技指導を―その役の性根を教えている演出の本谷有希子が見えてくるのだ。ここに登場する役者たちはこれだけ親切に教えられたらもうそれぞれの演技を完璧にこなすしかない。

 最後の「いかにして私がピクニックシートを見るたび、くすりとしてしまうようになったか」は、遅延(または妨害)の技法で終始する。試着室の中にいるのはどんな女なのかという読者の疑問に対する答えをいつまでも出さないミステリー効果のある技法だが、作者はついに最後まで女の正体を明かさない。エンタメ系の技法と思われているが、これならもちろん、文学になります。

 眠れない夜、台所でウィスキーを飲みながら「群像」のこの連作を一篇、または二篇読むという楽しみを味わった。あの読み方は結局正しかったのだ。そのあといい夢や悪夢を幾晩も見せてもらったからである。