スリリングな女たち

田中弥生

定価(税込):1,575円

「神秘的な部分」の現在的表現

富岡幸一郎

 

 鹿島田真希、本谷有希子、綿矢りさ、金原ひとみ、島本理生、柴崎友香の六人の女性作家を取り上げ、その作品を読み解くなかで現代社会の様々な相を浮きぼりにした評論集である。
 金原ひとみ「蛇にピアス」と綿矢りさ「蹴りたい背中」が芥川賞を受賞し注目されたのは二〇〇四年一月であった。十九歳、二十歳という芥川賞史上の最年少記録なるかといった“話題”先行の感もあったが、この時に候補作にあがっていた島本理生「生まれる森」もふくめて、若い女性の作家たちの登場は新しい文学のステージを作りつつあることを強く印象づけた。
 それから八年余りを経て、現代小説の世界はまさに“スリリングな女たち”の活躍の場となっている。本書では論じられていないが昨年に芥川賞を受賞した朝吹真理子を加えれば、著者があとがきで記しているように「日本の三十代以下の作家では、女性の存在が質、量ともに目立つものになっている」のだ。さらにいえば、これらの作家たちの小説は、「現在」という捉え難い時代の最もアクチュアルな表現をなしている。
 本書の特色を最初に指摘しておきたい。それは著者が各作家の作品を丁寧に解読し、作品の構成と全体像、登場人物のキャラクターから文章のディテイルに至るまで緻密に論じていることである。あとがきで述べているが、これは「週刊読書人」で文芸時評を担当していた著者が、「毎月マメに文芸誌を読んでいた」なかから生れた批評の姿勢であろうが、これはきわめて大事なことだと思う。批評(家)はしばしば対象作品をダシにして自分の思想を物語ったり、時代の構図を作りがちであるからだ。「対象作品と書き手が、時評的な偶然によって巡り会う時、そこに、時代の今を生きる評論が生まれる」(あとがき)と著者はいうが、一九七二年生まれのこの批評家にとって、本書は「時評的な偶然」が贈ってくれた最大に幸福な「評論」なのであり、それは作品を分析する筆致の躍動によく表われている。
 それにしてもここで論じられている作品の背景に、マンガ・アニメや映像や情報化社会の様々な要素が色濃く漂っていることに改めて注目したい。鹿島田真希の『来たれ、野球部』が女子マネ(野球部の女子マネージャー)もののマンガ『タッチ』との関係から論じられ、本谷有希子の描く「エキセントリックな女性」像は歌舞伎役者の演じる「#荒事{あら/ごと}」を描く浮世絵と比較され、綿矢りさの『かわいそうだね?』の女主人公・#樹理恵{じゆ/り/え}の物語には、アニメ映画『火垂るの墓』やマンガ『北斗の拳』の影響があることが指摘される。そして樹理恵を囲繞しているのは、消費社会のなかであらゆるモノが記号化された空間なのである。著者は田中康夫の『なんとなく、クリスタル』と比較しこういう。田中の作品はブランドの固有名詞に埋めつくされ、それにかかわる膨大な註がつけられていたが、綿矢作品にはもはやその「註」はない。
《註がないのではない。描かれている空間が、既に註を内化した世代のものなので、本当は註だらけでも、見えなくなっているのである。たとえば誰かが樹理恵の像をクリックすると、彼女が着ている服や使っている化粧品のデータが表れる。この作品に描き出されているのは、註を内蔵した拡張現実ソフト的な情報空間であり、その中をさまざまな記号に身を変えつつ移動していく人々の姿なのだ》
 八〇年代に出現した消費社会と現代の状況との決定的な差異。小説空間もまたこの「記号」化した人間を描き、そのなかで新たなイメージの表出をなす。写真や映像などの視覚芸術と結びつけられている柴崎友香のデビュー作「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」の一節と川端康成の『雪国』の有名な冒頭とを比較対照し、後者が幻想的な視覚世界へと入りながらも「雪」が積もった「地面」が確かに物質世界としてあるのに、柴崎作品では「物質世界よりも語り手の視覚のほうが先にある」と指摘する。そこではメディアの進歩にともなう「人間の感覚」の変形が起こっている。
《おそらく優れた小説は、そうした感覚の変形によって、新しい危機や悲劇を体験することになった人間が、同じような危険に遭遇している同時代の人々、今後それに遭遇するだろう未来の人々と、その体験を分かち合い、それが乗り越えられるものであることを確認しようとする時に生まれるのだろう》
 この確認作業をもたらすのは、しかし言葉であり、小説はその最も自在な表現の可能性を秘めている。
 一九七〇年代半ばに戦争や革命思想をテーマにしてきた戦後文学者たちの代表作はほぼ出揃い、八〇年代は女性作家たちが「日常的なもの」を根底から問い直すラディカルな作品を発表した。大庭みな子、三枝和子、富岡多惠子、増田みず子、山田詠美、笙野頼子、よしもとばなな、松浦理英子など世代をこえた“女流”の時代であった。綿矢、金原世代の出現はこの流れを一面汲んでいるが、しかし本書を通読しながら感じたのは、むしろ違いの方である。それは著者がいうように、彼女らの作品が「女性の恋愛や性、結婚や妊娠といった題材」を描き、「情報の伝達機械のようになって生きている」現代人への「生物としての違和感」を、「人間のもっとも神秘的な部分を描く中で表現している」ところだろう。八〇年代を代表する傑作、富岡多惠子の『波うつ土地』(八三年刊)は、広大な丘陵がブルドーザーで削られていく自然破壊の風景と、男女の関係・性の自然が崩壊する内的風景を重ねた衝撃的な作品であったが、それは「神秘的な部分」の変質と喪失ではなかったのか。二十年余を経て、現在の女性作家たちがそれをどう描いているのか、描いていくのか。その意味でも、本書は尽きぬ問いと興味を喚起してやまない。

 鹿島田真希、本谷有希子、綿矢りさ、金原ひとみ、島本理生、柴崎友香の六人の女性作家を取り上げ、その作品を読み解くなかで現代社会の様々な相を浮きぼりにした評論集である。

 金原ひとみ「蛇にピアス」と綿矢りさ「蹴りたい背中」が芥川賞を受賞し注目されたのは二〇〇四年一月であった。十九歳、二十歳という芥川賞史上の最年少記録なるかといった“話題”先行の感もあったが、この時に候補作にあがっていた島本理生「生まれる森」もふくめて、若い女性の作家たちの登場は新しい文学のステージを作りつつあることを強く印象づけた。

 それから八年余りを経て、現代小説の世界はまさに“スリリングな女たち”の活躍の場となっている。本書では論じられていないが昨年に芥川賞を受賞した朝吹真理子を加えれば、著者があとがきで記しているように「日本の三十代以下の作家では、女性の存在が質、量ともに目立つものになっている」のだ。さらにいえば、これらの作家たちの小説は、「現在」という捉え難い時代の最もアクチュアルな表現をなしている。

 本書の特色を最初に指摘しておきたい。それは著者が各作家の作品を丁寧に解読し、作品の構成と全体像、登場人物のキャラクターから文章のディテイルに至るまで緻密に論じていることである。あとがきで述べているが、これは「週刊読書人」で文芸時評を担当していた著者が、「毎月マメに文芸誌を読んでいた」なかから生れた批評の姿勢であろうが、これはきわめて大事なことだと思う。批評(家)はしばしば対象作品をダシにして自分の思想を物語ったり、時代の構図を作りがちであるからだ。「対象作品と書き手が、時評的な偶然によって巡り会う時、そこに、時代の今を生きる評論が生まれる」(あとがき)と著者はいうが、一九七二年生まれのこの批評家にとって、本書は「時評的な偶然」が贈ってくれた最大に幸福な「評論」なのであり、それは作品を分析する筆致の躍動によく表われている。

 それにしてもここで論じられている作品の背景に、マンガ・アニメや映像や情報化社会の様々な要素が色濃く漂っていることに改めて注目したい。鹿島田真希の『来たれ、野球部』が女子マネ(野球部の女子マネージャー)もののマンガ『タッチ』との関係から論じられ、本谷有希子の描く「エキセントリックな女性」像は歌舞伎役者の演じる「荒事(あらごと)」を描く浮世絵と比較され、綿矢りさの『かわいそうだね?』の女主人公・樹理恵の物語には、アニメ映画『火垂るの墓』やマンガ『北斗の拳』の影響があることが指摘される。そして樹理恵を囲繞しているのは、消費社会のなかであらゆるモノが記号化された空間なのである。著者は田中康夫の『なんとなく、クリスタル』と比較しこういう。田中の作品はブランドの固有名詞に埋めつくされ、それにかかわる膨大な註がつけられていたが、綿矢作品にはもはやその「註」はない。

《註がないのではない。描かれている空間が、既に註を内化した世代のものなので、本当は註だらけでも、見えなくなっているのである。たとえば誰かが樹理恵の像をクリックすると、彼女が着ている服や使っている化粧品のデータが表れる。この作品に描き出されているのは、註を内蔵した拡張現実ソフト的な情報空間であり、その中をさまざまな記号に身を変えつつ移動していく人々の姿なのだ》

 八〇年代に出現した消費社会と現代の状況との決定的な差異。小説空間もまたこの「記号」化した人間を描き、そのなかで新たなイメージの表出をなす。写真や映像などの視覚芸術と結びつけられている柴崎友香のデビュー作「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」の一節と川端康成の『雪国』の有名な冒頭とを比較対照し、後者が幻想的な視覚世界へと入りながらも「雪」が積もった「地面」が確かに物質世界としてあるのに、柴崎作品では「物質世界よりも語り手の視覚のほうが先にある」と指摘する。そこではメディアの進歩にともなう「人間の感覚」の変形が起こっている。《おそらく優れた小説は、そうした感覚の変形によって、新しい危機や悲劇を体験することになった人間が、同じような危険に遭遇している同時代の人々、今後それに遭遇するだろう未来の人々と、その体験を分かち合い、それが乗り越えられるものであることを確認しようとする時に生まれるのだろう》

 この確認作業をもたらすのは、しかし言葉であり、小説はその最も自在な表現の可能性を秘めている。

 一九七〇年代半ばに戦争や革命思想をテーマにしてきた戦後文学者たちの代表作はほぼ出揃い、八〇年代は女性作家たちが「日常的なもの」を根底から問い直すラディカルな作品を発表した。大庭みな子、三枝和子、富岡多惠子、増田みず子、山田詠美、笙野頼子、よしもとばなな、松浦理英子など世代をこえた“女流”の時代であった。綿矢、金原世代の出現はこの流れを一面汲んでいるが、しかし本書を通読しながら感じたのは、むしろ違いの方である。それは著者がいうように、彼女らの作品が「女性の恋愛や性、結婚や妊娠といった題材」を描き、「情報の伝達機械のようになって生きている」現代人への「生物としての違和感」を、「人間のもっとも神秘的な部分を描く中で表現している」ところだろう。八〇年代を代表する傑作、富岡多惠子の『波うつ土地』(八三年刊)は、広大な丘陵がブルドーザーで削られていく自然破壊の風景と、男女の関係・性の自然が崩壊する内的風景を重ねた衝撃的な作品であったが、それは「神秘的な部分」の変質と喪失ではなかったのか。二十年余を経て、現在の女性作家たちがそれをどう描いているのか、描いていくのか。その意味でも、本書は尽きぬ問いと興味を喚起してやまない。