三姉妹とその友達

福永 信

1650円(税込)

多機能携帯電話的なもの

藤野可織

「三姉妹」「そのノベライズ」「この世の、ほとんどすべてのことを」の三本が入っている。このうち、「三姉妹」と「そのノベライズ」はセットだ。初出の群像掲載時には、「そのノベライズ」部分は「今号のあらすじ」として「三姉妹」の一角に本文より小さな文字でしれっと印刷されていた。

 このたびの単行本化で、「あらすじ」が取り外されてひとまとまりになり、うしろに配されたのは、もっともなことであると思う。「あらすじ」はとても大切だけれども、世の中にはもっと大切なことがあるからだ。それは、人のはなしに耳を傾けることである。うわべではなく、真のコミュニケーションを交わすことである。そしてこれこそが、本書が訴える壮大なテーマなのだ。

「三姉妹」は四幕から成り、第一幕は長男、第二幕は次男、第三幕は三男、第四幕は四男の語りという形式をとっている。まさに登場人物が読者に、あるいは別の人物に直接話しかけているわけだ。そういう大切なときに、話の内容をはしょったりかいつまんで説明したりする「あらすじ」が目の端をちらちらするようでは、真のコミュニケーションは達成されない。だいいち「前号のあらすじ」ならまだしも、「今号のあらすじ」など言語道断である。「あらすじ」が「そのノベライズ」として独立したことによって、本書のテーマが浮き彫りにされたと言ってよい。

「三姉妹」と「そのノベライズ」は、人心を荒らし健康を害する多機能携帯電話を廃し、かわりに貝がらを普及させるため尽力した四兄弟の物語である。彼らによって、貝がらを耳に当てて、生者や死者や、生まれてくる前の者たちの声を聞くことを当たり前とする世界が到来する。しかし、そのような世の中をつくるために四兄弟は多くを犠牲にしなければならなかったし、苦労は並大抵のものではなかった。悲劇も避けられなかった。

 そういったようなことが、四兄弟それぞれの視点から語られる。語りはぎこちなく、つたない。しかも言葉遣いがおかしい。長男と次男は、ごくふつうの言葉のなかに、妙に古くさい言い回しをさりげなく混ぜてはばからない。三男は逆に、やけに現代的な物言いをしたりする。しかし、整然とした語りなんて期待するべきではないし、人のはなしに耳を傾けることの重要性を理解しているなら……。

 なんてことは、もちろん、はじめからちっとも思わない。正直、本書はものすごく笑える。それだけでなく、読んでいてちょっと困る。さんざん笑っておいてこんなことを言うのもなんだが、うわあ困った人につかまっちゃったよ、という気分である。四男は、事実らしきものを淡々と語るので、一瞬だけやっとまともな人に会ったような気になるが、これは気のせいだ。それまでの三幕を通して四男のことはおおむね謎だったが、四男本人が登場してさえも彼は謎のままである。いやむしろ、さらに謎は深まる。

 そもそも本書は、ページをめくったとたんに、さっそく困る。

「三姉妹」に、三姉妹は出てこない。出てくるのは四兄弟だ。なのになぜ「三姉妹」かというと、タイトルの次のページに脚本のような体裁で設定事項の記述があり、そこに「三姉妹で演ずる事」とあるからだ。それならしかたがないので、困りながら解決法を探ることとなる。出てくるのはほんとうは四兄弟だけど、私の目の前にいるのは三姉妹だ、ということを忘れないために、私はとりあえず友達の三姉妹を実際にキャスティングしてみた。私には三姉妹であるところの知り合いはその一組しかいないので、この作業はあっというまに終わった。性別のことはこれでひとまず片付く。女の人が演じる男の人ってけっこう魅力的なので、片付くどころか乗り気になっていたりもする。

 でも、困ったことはまだ続く。ひとり足りないことだ。「四人目は演出において創意工夫の事。」とあるが、こういうのはほんとに困る。だいたい、四人目って誰が四人目なんだろう。実は血のつながりのない三男なのか、いまいち存在がたしかでない四男なのか、それともまったく別の理由で長男や次男でもあり得るのか。私は、本書のタイトルが『三姉妹とその友達』でもあることだし、「その友達」(たとえば私)が兄弟のうち好きな人を担当すればいいんじゃないかなあと考えたが、「三姉妹」の処理、四人目の処理はきっといろいろな方法があり、読んだ人の数だけの困り方が存在するであろうとも思う。

 さて、途中から本書がいかに困る本であるかを述べたが、はじめに書いたことは決してでたらめではない。本書の困っちゃう内容とテーマは、ほんとうに真のコミュニケーションを交わすことの大切さと困難さを訴えている、と私は思っている。つまり、雑誌掲載時と比較して、四角く区切られた「今号のあらすじ」を持たなくなった本書のページは、多機能携帯電話を捨て去った人体を表現しているようであるし、ということは、捨て去るべき多機能携帯電話的なものは「あらすじ」一般(たとえばこの書評)であり、そうなると貝がら的なものは本そのものと考えられるだろう。そういえば、生者だけでなく死者や生まれてくる前の者たちの声を聞かせてくれるのは、私の知るかぎりでは本くらいのものだった。

 ところで、「この世の、ほとんどすべてのことを」はおそろしい小説だ。理想郷というか、天国のような世界が描かれているし、やっぱり笑っちゃうんだけど、恐怖小説といってもいいだろう。もちろんこれは私の多機能携帯電話的な意見であり、この書評を読んでくださったあなたが交流しているのは本書ではなく私であるわけですが、実のところ本書は多機能携帯電話越しに不特定多数に向けて交友を自慢したくなるような本です。