獅子渡り鼻

小野正嗣

1540円(税込)

語り得ぬものを語る声

鴻巣友季子

 小野正嗣の小説には超常的なものがなにげなく入りこんでくる。『森のはずれで』には、宙に浮かぶこびとが出てきたり、『線路と川と母のまじわるところ』には、他人の心に自由に出入りでき、顔がクモの巣で作り変えられる王さまがいたりした。『夜よりも大きい』は暗い森の奥と浦を舞台に、「夜よりも大きい」何かがやってきたりした。

 また『マイクロバス』においては、超自然のものは外からやってくるのではなかった。内側から、理【ことわり】を超えたものが出現する。過疎化の進む集落に住む口がきけない青年の「心理」や「考え」を外側から描写するのではなく、たとえば、殴られれば、「彼は痛がった」と語り手が代弁する代わりに、すべてが唸る蠅となって彼の体表を覆う。両親に食べ方が汚いと叱責されて焦ると、「まわりの空間が硬いざらざらとする壁となって迫り、そこにつきたての餅でも投げつけているかのように、(中略)くっちゃくっちゃとさらに大きな音が響き渡」る。言語をもつ者がもたない者を描こうとする矛盾から、特異なスタイルが生みだされた。

 さて、これらのどの作品よりも『獅子渡り鼻』は、一般的なリアリズム小説に近いだろう。舞台の一部は今回も浦の「〈まち〉」だ。『夜よりも大きい』では、電流が流れているという柵が浦と海とを隔てていた。また、エッセイ集『浦からマグノリアの庭へ』では、「湾と言っても、それは外海には開かれていない(中略)閉じ込められ、どこにも逃げ場のない海」であり、浦は閉ざされたものだった。しかし『獅子渡り鼻』では、閉鎖的な浦から出ていく者がいる。それが、尊【たける】の母だ。和香子は大きらいな浦を出て、ある県でふたりの息子を産み、暴力癖のひどい土木業の男にすがって生きる。兄弟は母にネグレクトされながらも、折々に隣人や「大きなもの」に救われて命をつなぐ。尊は十歳の夏、母の故郷の集落へやられ、親戚の老女「ミツコ」に預けられて、好意に包まれ安定した日々を送るが、「桃野」や「開路間【あけろま】町」での恐ろしい体験の記憶が不意に甦る。

 本作にも、不思議な存在が登場する。尊が到着した空港で最初に見かけ、ときどき現れては、「いーんじゃが、いーんじゃが」などと言って、なごませてくれる人。男性ということは分かるが、「子供なのか老人なのか、どちらでもあり、どちらでもない」という風貌である。尊はミツコの家に着くとすぐに、この人物らしき人の写真を見つけ出す。彼は「文治」さんと言って、知的障害があり、幼いうちに亡くなった。弟の「毅【たけし】」もわりあい若死にしていた。尊と毅という名前の響きの類似、障害者の兄がいる点など、尊はこの兄弟と自分たちに共通するものを感じる。

 森のこびとやキンチャンと同じで、この男性もみんなに見えるわけではない。尊以外に彼が見えるという人物を読者は知らされない。男性が写真の文治である保証もない。しかし尊の完全な幻想でもないだろう。例えば、男性は初めて見かけた頃から、尊にはほとんど未知の方言を自然に流暢に話している。知らない言語で夢を見るのは困難だ。

 文章モードとしては、三人称多視点がベースにあるが、作品の大半は、尊の立場に寄り添って三人称一視点に「近い」形で書かれている。ところが、尊はまだ十歳であるうえ、心的外傷ゆえか記憶にあいまいな部分があるため、彼の目(理解力)と口(言語力)では充分に語り得ない。見えない語り手が主人公に寄り添い、一人称小説に近いナラティヴの質を呈しながら、主人公自身には語り得ないことを語り、主人公が知り得ないことを読者にだけ伝え、語りのヴァンテージ・ポイントを所々に作るという手法は(西洋の三人称小説ではなじみのものだが)、『マイクロバス』と相通じるものがある。たとえば、こんな場面。「尊にこうはっきり文治が見えるのだとしたら、(中略)この土地の風景を織りなすすべてが、己の存在の輪郭や濃度を、(中略)文治に譲り渡して、そうやって文治がこの地上から消滅するのをかろうじて阻止している。そうはならないか? そうだ、そう考えることもできるはずだ」。これは明らかに尊の語彙でも思考でもない。問いかけ自答して話をまとめているのも、尊ではなく語り手(≒作者)だろう。ちなみに、本作の視点のとりかたは、小野正嗣が共訳した究極の三人称多視点群像小説『ガラスの宮殿』(アミタヴ・ゴーシュ作)とは好対照である。同作は語りの見晴らし台をあえて作らず、数多の登場人物間で視点が移り変わる波間に読者も投げこまれることになる。

 尊が途切れがちな記憶をたどると、このようになる。母に次いで兄が消えたときのこと。「考えとは呼びたくない妄念のようなものが、いや、ブブブブと湿ったものが焼け焦げる音が、死んだ魚に群がる蠅のようにまといついてきた」。尊の傷の核心にある出来事は模糊としている。しかし毅と文治のある一日を尊に幻視させることで、毅・文治の精神的ダブルである尊と兄にどんなことが起きたのかを読者にほのめかす。ここは本作の手法における頂点のひとつだ。

 文治も尊兄弟も、彼らを助ける隣人たちも、小野文学にしばしば登場してきた「存在するのに見られない人々」である。こびとや森の謎の住人に移民・難民のアナロジーがあることは以前の書評でも書いたが、本作でも尊たちの隣に住むハイチからの(おそらく違法)入国者が兄弟を助けて消えていく。文治には浦が世界のすべてだったのに、その世界から彼は見てもらえなかった。外から拒まれ、内なる世界にも浦の記憶しかないのであれば、彼は内外から拒絶されることになるのか? いや、そうではない、と作者は声をはさんだ。文治の「輪郭や濃度」を尊に「譲り渡し」、土地が文治を生かすのだ、と。

 尊はほんの少し文治になり文治を生き継ぐことで、土地に赦され新たな生を得るだろう。しかし彼が再生した後も、「大きなもの」は尊を守りもすれば、突き放しもする。肯定もすれば、憎みもするだろう。光と影を幾度も糾いながら、しかしいっとき明るい面を表にして物語を閉じるのも、作者ならではだと思う。本作ではその明るさが一段と増したのも好印象である。