ヤマネコ・ドーム

津島佑子

定価(税込):2,100円

3.11以後の「黙示」文学

富岡幸一郎

 

『ヤマネコ・ドーム』と題されたこの作品は、まさに織物としてのテクストの不穏にして蠱惑的な美しさに充ちている。
 巻頭に現われる「金属に似た、暗いエメラルド・グリーンの色にひかる虫たち」が無数に群がりながら樹木の葉を食べつづける不気味な音の響きからはじまり、生者と死者たちが放射能に汚染されたこの世界から連れ添うように離脱していく鮮烈なラストまで、いくつもの色あざやかな、直視することで不安と狂気に駆られるような多様な糸によって織りあげられている。読者はこの複雑に合わせられた言葉の流れにひたすら#誘{いざな}われていくだろう。
 その糸の一本は、大震災の津波と原発事故による目に見えぬ放射能の恐怖である。水も木も草も、鳥や動物や人間も、いやここに登場する人物たちの心や夢のなかまで、その不可視の死の空気が浸透し、作品の時間はそこで歪められ、物語としての直線や円環のかたちは#毀損{き/そん}される。したがって通常のストーリーとしての語りや描写は、はじめから成立しない。この一本の糸には無数の微細な孔があけられており、そこから語りは時空を越えて自在に展開する。
 もう一本の糸は、占領期に米兵と日本人女性とのあいだに生れた混血孤児たちの姿態である。久里浜にあったホームで育った黒人と日本人の混血のカズ、スペイン人のような風貌のミッチ、そしてカズとミッチの養母のいとこの娘ヨン子。この三人が軸になって話は進むが、この他にも戦後のアメリカ駐留軍兵士を父親として生れた混血児たちが登場する。彼等は成長しそれぞれの人生を生きるが、カズはニュージーランドに行き植物園で働いたり、ミッチはブルターニュに赴きそこで「魔法使い」の日本が滅亡するという予言、そしてその後「得体の知れない魔物が居すわる」という言葉を聴く。また周囲の森にヤマネコがいる古城を訪れるが、そこは生者と死者が共棲する霊的な気配を立ち昇らせる場所であった。ホームの母であった朝美母さんが末期ガンで死が迫っているとの報に、この各地に散っていた孤児たちは、日本へと帰ってくる。この戦後の混血孤児たちは、今日の日本社会ではすでに「見えない存在」となっているが、作者はこの隠された歴史の闇の子供たちを招喚する。そしてこの糸は、原発事故後の日本の時間のなかに絡みながら、「隠された暴力と恐怖の記憶」として作品の底辺へと深くひろがっていく。
 このテクストが醸し出す「暴力」と「恐怖」はそれだけではない。さらにもう一本の糸が、暗い地中を走る木の根のように伸びている。それはカズやミッチと同じ孤児院で育ったミキという七歳の女の子の謎の死である。オレンジ色のお古のスカートをはいたフランス人形のようなミキはある日池へと転落して不可解な〓死を遂げたのだった。彼女の傍には少し年上の近所でター坊と呼ばれていた男の子が立っており、ター坊が犯人ではないかとの思いがヨン子やカズ、ミッチたちを長いこと呪縛している。その後何十年ものあいだにオレンジ色を身につけた女性殺しの事件が五件も断続的に続く。ミキもまた白人の米兵の残した孤児であったが、母子家庭のター坊とのあいだに子供ならではの心理的葛藤があったのではないか、ター坊はこの不意の殺意の記憶をかかえて成長し、さらなる犯行に及んだのではないか、との推測が渦巻く。作品はこの「記憶」を日本で再会するヨン子、カズ、ミッチという三人が、その水死の現場である忌わしい池のイメージを共有することで、ミステリアスな深層をのぞかせるのである。
《ミキちゃんは、頭から池に落ちる。水の重い音がひびく。スカートのオレンジ色がひろがり、白い水しぶきがそのまわりに舞いあがる。水しぶきは暗い緑色の虫の群れに変わって、池のまわりを飛び交いはじめる。コガネムシみたいにひかりはじめたミッチの眼も茂みから飛び立って、池のほうに飛んでいく。カズの黒い縮れっ毛が逆立ち、舞いあがる。虫の羽音が池の濁った水面を波立たせる。そのなかで、エメラルド・グリーンに染まったター坊がぽつんと立ちつくす》
 何もかもをのみ込んでしまうような池の暗い水面。死んだ女たちに共通する毒々しいオレンジ色。白い水しぶきから変ずる緑色の虫の大群。混血孤児たちのさまざまな目の色と輝き。ブルターニュの森の深緑色と海辺の光のなかの青の鮮烈。広島の日の真夏の暑さと太陽。ベトナム戦争で泥沼を泳ぐ兵士の真黒な顔。四千年の単位で循環している森の上に広がる水色の、そしてピンク色に染まる空。チェルノブイリという無人の空間と、月の光もない闇に包まれるヤマネコたちの森のなかの城。
 テクストはこの無数の色彩の糸によって織りあげられていく。もちろんそれは長編小説と呼ぶことはできるが、散文とか詩とかいうカテゴリーをこえた、現われては消える光点の集合体であり、流動して止まない言葉のタペストリーである。これほど妖しいまでに美しく、そして不安な喜悦を浮きぼりにする小説があったろうか。
 しかし、この作品は決して幻想性や神秘の光へと読者を誘ってはいかない。「世界は消えていく」という感触のなかに、われわれをもう一度この世界の残酷な在りのままの現実の前へと引き戻す。戦争、殺戮、レイプ、差別、権力、核、政治などの生々しい現実の諸相が現出してくるからだ。絶望へと転落することもできなければ、慰撫へと逃避することもできない現実。「ここで、わたしは死にたい。死なせてほしい。/だけど時間が止まっていたら、死ぬこともできない。死ぬためにも、まだ時間が動いているところに移らないと」という作品の末尾の科白は、強い響きをもたらす。「3・11以後の文学」といういい方をあえてするならば、この長編こそは、聖書的な真の意味での、すなわち苛烈な現実の上に立ち尽して描かれたヴィジョン(幻視)としての「黙示」文学なのである。

『ヤマネコ・ドーム』と題されたこの作品は、まさに織物としてのテクストの不穏にして蠱惑的な美しさに充ちている。

 巻頭に現われる「金属に似た、暗いエメラルド・グリーンの色にひかる虫たち」が無数に群がりながら樹木の葉を食べつづける不気味な音の響きからはじまり、生者と死者たちが放射能に汚染されたこの世界から連れ添うように離脱していく鮮烈なラストまで、いくつもの色あざやかな、直視することで不安と狂気に駆られるような多様な糸によって織りあげられている。読者はこの複雑に合わせられた言葉の流れにひたすら誘(いざな)われていくだろう。

 その糸の一本は、大震災の津波と原発事故による目に見えぬ放射能の恐怖である。水も木も草も、鳥や動物や人間も、いやここに登場する人物たちの心や夢のなかまで、その不可視の死の空気が浸透し、作品の時間はそこで歪められ、物語としての直線や円環のかたちは毀損(きそん)される。したがって通常のストーリーとしての語りや描写は、はじめから成立しない。この一本の糸には無数の微細な孔があけられており、そこから語りは時空を越えて自在に展開する。

 もう一本の糸は、占領期に米兵と日本人女性とのあいだに生れた混血孤児たちの姿態である。久里浜にあったホームで育った黒人と日本人の混血のカズ、スペイン人のような風貌のミッチ、そしてカズとミッチの養母のいとこの娘ヨン子。この三人が軸になって話は進むが、この他にも戦後のアメリカ駐留軍兵士を父親として生れた混血児たちが登場する。彼等は成長しそれぞれの人生を生きるが、カズはニュージーランドに行き植物園で働いたり、ミッチはブルターニュに赴きそこで「魔法使い」の日本が滅亡するという予言、そしてその後「得体の知れない魔物が居すわる」という言葉を聴く。また周囲の森にヤマネコがいる古城を訪れるが、そこは生者と死者が共棲する霊的な気配を立ち昇らせる場所であった。ホームの母であった朝美母さんが末期ガンで死が迫っているとの報に、この各地に散っていた孤児たちは、日本へと帰ってくる。この戦後の混血孤児たちは、今日の日本社会ではすでに「見えない存在」となっているが、作者はこの隠された歴史の闇の子供たちを招喚する。そしてこの糸は、原発事故後の日本の時間のなかに絡みながら、「隠された暴力と恐怖の記憶」として作品の底辺へと深くひろがっていく。

 このテクストが醸し出す「暴力」と「恐怖」はそれだけではない。さらにもう一本の糸が、暗い地中を走る木の根のように伸びている。それはカズやミッチと同じ孤児院で育ったミキという七歳の女の子の謎の死である。オレンジ色のお古のスカートをはいたフランス人形のようなミキはある日池へと転落して不可解な溺死を遂げたのだった。彼女の傍には少し年上の近所でター坊と呼ばれていた男の子が立っており、ター坊が犯人ではないかとの思いがヨン子やカズ、ミッチたちを長いこと呪縛している。その後何十年ものあいだにオレンジ色を身につけた女性殺しの事件が五件も断続的に続く。ミキもまた白人の米兵の残した孤児であったが、母子家庭のター坊とのあいだに子供ならではの心理的葛藤があったのではないか、ター坊はこの不意の殺意の記憶をかかえて成長し、さらなる犯行に及んだのではないか、との推測が渦巻く。作品はこの「記憶」を日本で再会するヨン子、カズ、ミッチという三人が、その水死の現場である忌わしい池のイメージを共有することで、ミステリアスな深層をのぞかせるのである。

《ミキちゃんは、頭から池に落ちる。水の重い音がひびく。スカートのオレンジ色がひろがり、白い水しぶきがそのまわりに舞いあがる。水しぶきは暗い緑色の虫の群れに変わって、池のまわりを飛び交いはじめる。コガネムシみたいにひかりはじめたミッチの眼も茂みから飛び立って、池のほうに飛んでいく。カズの黒い縮れっ毛が逆立ち、舞いあがる。虫の羽音が池の濁った水面を波立たせる。そのなかで、エメラルド・グリーンに染まったター坊がぽつんと立ちつくす》

 何もかもをのみ込んでしまうような池の暗い水面。死んだ女たちに共通する毒々しいオレンジ色。白い水しぶきから変ずる緑色の虫の大群。混血孤児たちのさまざまな目の色と輝き。ブルターニュの森の深緑色と海辺の光のなかの青の鮮烈。広島の日の真夏の暑さと太陽。ベトナム戦争で泥沼を泳ぐ兵士の真黒な顔。四千年の単位で循環している森の上に広がる水色の、そしてピンク色に染まる空。チェルノブイリという無人の空間と、月の光もない闇に包まれるヤマネコたちの森のなかの城。

 テクストはこの無数の色彩の糸によって織りあげられていく。もちろんそれは長編小説と呼ぶことはできるが、散文とか詩とかいうカテゴリーをこえた、現われては消える光点の集合体であり、流動して止まない言葉のタペストリーである。これほど妖しいまでに美しく、そして不安な喜悦を浮きぼりにする小説があったろうか。

 しかし、この作品は決して幻想性や神秘の光へと読者を誘ってはいかない。「世界は消えていく」という感触のなかに、われわれをもう一度この世界の残酷な在りのままの現実の前へと引き戻す。戦争、殺戮、レイプ、差別、権力、核、政治などの生々しい現実の諸相が現出してくるからだ。絶望へと転落することもできなければ、慰撫へと逃避することもできない現実。「ここで、わたしは死にたい。死なせてほしい。/だけど時間が止まっていたら、死ぬこともできない。死ぬためにも、まだ時間が動いているところに移らないと」という作品の末尾の科白は、強い響きをもたらす。「3・11以後の文学」といういい方をあえてするならば、この長編こそは、聖書的な真の意味での、すなわち苛烈な現実の上に立ち尽して描かれたヴィジョン(幻視)としての「黙示」文学なのである。