未明の闘争

保坂和志

定価(税込):1,995円

ジョンたちのこと

佐々木 敦

 猫は飼ったことがない。犬ならある。実家に居た頃で、だからまだ十代の、遠い遠い昔のことだ。名前はジョンといった。私が生まれる前に飼われていた犬もジョンで、その前に飼われていた犬もジョンだった。三代のジョンに血の繫がりは全然ない。私の知っているジョンはある日、妹の友だちの家から買い物かごに入れられてやってきた。その時は子犬だったが覚えているのは成犬になってからのジョンのことばかりだ。スピッツと秋田犬のハーフで、体の大きさは秋田犬で毛の長さがスピッツで、性格もどちらかといえばスピッツ。こうした場合の例に漏れず、いちばん飼いたがっていた筈の妹は程なく殆ど世話をしなくなり、ジョンの毎日の散歩は父母のどちらか、もしくは私の担当になった。雨の日も嵐の日も、ジョンは夜の決まった時間になると、散歩に行きたがった。豪雨の中、このままではずぶ濡れになるのでさっさと帰りたいのに、そんな時に限ってジョンはいつもとは別の方角へ、行ったことのない路地へと入っていきたがった。リードを引っ張ると怒り、もっと引っ張ると拗ねた。ジョンは私がまだ高校生の時に病気に罹り、それからは臥せりがちになった。家族は何度か死を覚悟したが、ジョンは何度も恢復した。結局、ジョンが死んだのは私が東京に行ってからのことだった。母親はショックで暫く塞ぎ込み、私が帰省した際、もう二度と犬は飼わないと誓った。とても良い犬だったから、ジョンはもうあの子で最後。

 もしもいつか人生の過去の時間に一度だけ戻れるとしたら、私はジョンと毎日散歩したあの三十数年前に戻りたいだろうか。

 或る時期以降の保坂和志の小説の例に漏れず、『未明の闘争』もやはり半分ぐらいは猫の、猫たちの話である。だが犬も、犬たちも出てくる。猫たちの中にはまだ生きているものもいるが、犬たちはみんなもうこの世にはいない。鎌倉に住んでいた頃の高校生だった「私」が散歩に連れていっていた二匹の犬はジョンとポチといった。ジョンは早く死んでしまったがポチは十六年と十一ヵ月も生きた。私のジョンもそのくらい生きたと私は思っていたが、母親に確認したらもっとずっと短かった。私のジョンと「私」のジョンは同じ名前だが同じ犬ではない。この世にはジョンという名の犬が他にも数え切れないほど存在していた/いるだろう。ポチという名の犬も無数に存在していた/いるだろう。ブンという名の猫、ピルルという名の猫、チャーちゃんという名の猫だって、きっとたくさんいた/いるにちがいない。現に私はついこのあいだ観た芝居の中にチャーちゃんという名の猫が出て来た。劇作家は保坂和志のファンだったがネーミングは無意識だった。だが意識していなくても彼の書いたチャーちゃんは保坂和志の書くチャーちゃんと同じ名前であり、その意味で二匹は響き合っている。

 この長い長い小説の「私」はホッシー=星川という名前で保坂ではない。ではたとえば北町貫多と西村賢太のような関係を、星川と保坂は結んでいるのだろうか。これは私小説なのだろうか。そもそも私小説とは何か。或いはたとえばマルセル・プルーストと『失われた時を求めて』の「私」のような関係だと言えばいいのか。確かにこの小説で起こっていることは「回想」ということであるようだ。なにしろ「私」は常人離れした記憶力を持っている。自分でもそう思っているし他人からもしばしばそう言われている。だが思い出せるということと忘れていないということは別であり、この「私」がしているのは後者である。「私」は何もかもを忘れていない。過ぎ去ったことはいつも目の前にある。だからもういない者もいなくなっていないとも言える。今は今かもしれないが、そして今が今であることは仕方がなく、それゆえに全力で肯定すべきことかもしれないが、しかしかつてはその時が今だったのであり、これから先のいつかはその時が今なのだ。そして前者の今からみたら今の今はこれからであり、後者の今からみると今の今はかつてである。保坂和志の小説はどれも一種の時間論だが、こういう途方もなくマクロな時間の上に立って、だがやはりこの今はいつでもこの今でしかない。時は失われていないので求める必要はない。だが今にとって過去と未来はいつも今ではない。それは連続しているが同時に断絶してもいる。ジョンが生きていた頃に戻ったとしたらジョンはいつか死ぬ。ジョンの死んだあとにはジョンはいないがジョンがいたことは忘れていない。であるならジョンはいないわけではないが、ジョンはやはりいないのだ。

 こんな風に書いたとしても何ら矛盾はしていない。要するに『未明の闘争』はこのような小説である。ここでは「私」がたくさんのことを思い出す。忘れていないことを思い出し、思い出した中でまた思い出し、その中でも思い出し、今の内側に今が現われ、また今が穿たれて、多重カッコになったみたいな今たちを「私」が貫通している。「私」はひどくさみしい。犬たちが、猫たちが、今ここにいなくてさみしい。大切な者を喪った時、その哀しみがあまりにもつらくて、その耐え難い哀しみを何とかしなくてはならない。或る時期以降の保坂和志の小説は、この要請から出発し、今もってその周囲を旋回している。彼の時間論、彼の小説論、彼の哲学は、煎じ詰めれば、すべてがこの要請への応接として構築されている。けっして神とは呼ばないが、今と過去と未来の、あるものとあったものとあるだろうものの弁別を一切合切解消してしまうような存在を仮想し、信じること。それは半分は真理であり、もう半分は詭弁であることを彼は知っている。それに、どれだけ今を累乗させたとしても、このかなしみがなくなることはない。なぜなら忘れるということがないのだから。いや、そもそも「私」は、このかなしみとさみしさだって、ほんとうは大切にしたいのだ。こうしてこの小説は書き出された。私は今、ジョンを思い出している。