燃える家

田中慎弥

2530円(税込)

西日本文学の新たな本流

田中弥生

 西日本生まれの人物が東京中心の日本の政治や文化を語る時、そこに生じる複雑な屈折に、私は「文学」を感じる。川端、大江、中上、村上龍、あるいは柄谷。西日本の視点は、それがはっきり見えない時でも彼らの文にたまらない味と奥行きを与えている。そう思っていた私の前に、西日本人による日本文学の新しい本流が現れた。

 本書は二〇一〇年秋から二〇一三年初夏にかけて「群像」に連載された田中初の長編小説である。下関をモデルとする架空の土地、赤間関(あかまがせき)を舞台に、高校二年生の滝本徹と幼なじみの相沢良男の不健全な結合双生児的依存関係を描くことから物語は始まる。前半は彼らが引き起こす女性国語教師拉致暴行事件が、後半は東京の政治権力と徹の謎めいた戦いが主な筋となるので、平野啓一郎や中村文則などと同じく虚無的な若い男性の行動と心理を直接語るタイプの作品にも思える。しかし連載一回目から田中は徹と対等の主人公として、徹の弟で小学一年生の滝本光日古と、拉致された高校教師の山根忍を登場させ、三者の物語を交互に語る形で全体を進めている。つまり本書は徹と相沢が語る青いテロリズムを残り二つの物語を通して相対化する試みとして読むことができるだろう。

 興味深いのは、相対化し合う三人の主人公が時に同一人物に思える点だ。作中時間は〇一年八月から〇二年五月までだが、三人の主人公の年齢は、山根が二十代後半、徹が高校二~三年生、光日古が小学一~二年生とほぼ十歳おきに規則的にばらけており、かつ間に山根の中学時代の回想が入ることによって、全て合わせると読者の脳内に七〇年代生まれの人物の生育アルバムが出来上がる仕組みになっている(メタフィクション的な意味で本書の著者とも思える、徹の父で作家の滝本満がこの人物の三十代なのかもしれない)。

 一人の人物が別の誰かの一部でもある。人物が見せるこの多層性は、他の事物にもあてはまる。たとえばタイトルの「燃える家」は、山根が目撃した聖堂焼失の様子でも、作中起きるニューヨーク同時多発テロの映像でもあり、徹が幻視する皇居の姿でも、光日古が体験する崩壊する家庭の比喩でもある。本書の中ではあらゆるものがそれ自体であるとともに、過去から続く、類似する何かの一部なのだ。おそらくこの特性は赤間関の性質に由来する。以前から田中作品固有の舞台として描かれてきた赤間関は、作中の現実の街であるとともに、下関や壇ノ浦、長州、田中個人の記憶など、あらゆる過去の集積からなる四次元空間としての性質を持っている。本書ではこの性質が掘り下げられ、土地でありながら関門海峡を女性器とする巨大な女性のようなものに一部変容している。あるいは本書の真の主役は、そんな女性としての赤間関かもしれない。徹を始めとする登場人物の物語が進む一方、関門海峡の底からわき上がる彼女の夢が、始めはごく断片的な形で、最後には津波のような巨大さで人々の葛藤を自分の一部に変え、海の底へと連れ去る。本書を通して田中はその経過を慎重にコントロールしつつ記録している。また田中の本領が感じられるのは、ばらまかれる赤間関の夢のイメージのほとんど無節操な多彩さに読者がふれる時だろう。関門海峡から押し寄せる蟹は平家蟹のようでも映画「マグノリア」のカエルのようでもあるし、相沢と徹をつなぐ白い鳩は安徳天皇や女子高生コンクリート詰め殺人事件、さらには中上が描く鳩の小屋をも連想させる(新興住宅地に住む山根の恋人「浜村」は私には赤間関に送り込まれた中上世界の使者のように思えた)。山根が自らの性的罪悪感の象徴とする指は、「雪国」の指とも、システィーナ礼拝堂天井画のアダムの指とも思える。特に田中の狂気が感じられるのは、それまで名前がなかった女子高校生に「越場と福井」という名がつくごく現実的な場面である。過去作で人が動物になる瞬間を平然と描いた田中だが、ここでは女子高校生が名前を通して日本海側の土地になる。生徒と教師の葛藤が、土地と土地が喧嘩するたぐいのおとぎ話に突然変わる。この魔術的なイメージの力は非常にラディカルに読者の脳に作用する。天皇制やキリスト教、三島やドストエフスキーなど、さまざまな言説的要素を作中に取り込み登場人物に語らせる本書だが、イメージの強烈さがそれらを強さ、危険さにおいて凌駕している。既存の思想や言葉を模倣し取り入れつつ、逸脱したイメージの美でそれらを相対化、言説の支配に対する人間の想像力の優位を読者に証す。芸術あるいは文学の条件を本書は確実に満たしている。

 ところで、本書にちりばめられたイメージ群の最表層部にあるのは田中の過去作のイメージである。山根が示す女性としてはいささか不自然な性的罪悪感は「不意の償い」の男性主人公のそれを思わせるし、彼女が受ける奇妙な性的暴行はデビュー作「冷たい水の羊」で主人公の男子中学生が受けた暴行の再現だと考えられる。「冷たい水の羊」とはその後の流れも共通しており、このデビュー作で主人公が書いた遺書を書き直したのが本作だと言うこともできそうだ。けれど赤間関においてはそれもまた夢だ。見たものを書き残す夢は壇ノ浦に沈む知盛も見たかもしれず、その夢を赤間神宮で語ったのが芳一だったのかもしれない。そして彼らの夢を抱いてきた赤間関は、本書において、現在の東京の保守政治もまた、自分の中で人々が見た権力の夢の続きに過ぎないのだと語るかのようだ。本州の端にして、現在の政治システムの産みの親。そんな日本列島の特異点としての赤間関が、今、西日本文学の伝統を引き継ぎ、内側から東京中心の現在の日本を喰い破る言葉を紡ぎ始める。父であり子であり夫だった権力から遠く離れ、火宅の跡で眠る女神が田中の筆を通して語る。その破壊的な夢に溺れたい。