舞台

西 加奈子

1540円(税込)

舞台を降りたとき人は

瀧井朝世

 西加奈子はずっと、社会一般の価値基準と闘ってきた作家だ。人が当たり前と思っている判断基準は、本当にその人自身のものなのか。単に鵜呑みにしているだけではないのか。そういう問いかけを小説内で書いてきた人だ。例えば昨年直木賞候補となり第一回河合隼雄物語賞を受賞した『ふくわらい』は、愛情や友情、自尊心といった人間らしい感情の機微を理解しなかった女性を主人公にして、彼女が実直に思索をめぐらし、自分なりに世界をとらえる瞬間までを追った衝撃的な作品だった。そんな著者が、新作『舞台』ではまったく正反対の、自意識にがんじがらめになった主人公を登場させた。これまでとはまた違ったアプローチで、彼女なりの闘いを描いてみせた。まさに新境地。

 主人公の葉太は29歳無職、はじめての一人旅、はじめての海外旅行でニューヨークにやってきた。慎重に準備を重ねた彼は、道端で広げることのないよう『地球の歩き方』だって暗記した。おのぼりさん風の観光客を馬鹿にして、ホテルではなく滞在型のアパートメントホテルに宿泊し、チェーン店ではなくローカルのダイナーに入店する。読み始めてすぐに、彼の自意識過剰っぷりが滑稽に思えてくる。

 彼は幼い頃から恥の感覚と自戒の念を強く持って生きてきた。しゃらくさい言動が鼻についた亡父を反面教師にしてきたのだ。調子にのってはしゃぐと必ずバチが当たるという考えにとりつかれ、つねに自意識をバリアに、人から馬鹿にされない行動を選んできたつもり。実際、幼い頃に調子にのったがために、しっぺ返しをくらったことだってあるのだ。彼の哀しいところは大人になるほどにその意識の強度が増してしまったこと。24時間態勢で自然な振る舞いを心がけ、自分を演じて生きている。自意識を悟られないように自意識を発動する姿はあまりにも道化じみていて、前半部分は彼の言動にニヤリ、クスリの連続だ。ただし、自分や周囲の人間を見ても、思い当たる節は大いにあるのだけれども。

 葉太の今回の旅には目的がある。それはセントラルパークにある芝生の広場シープ・メドウで、寝転がって大好きな作家、小紋扇子の小説を読むこと。滞在初日に公園を訪れ、その目的を達成せんとする喜びのあまり自意識のバリアを解除してしまった瞬間、彼は盗難にあってしまう。パスポートや財布が入った鞄を見知らぬ男に奪われてしまったのだ。

 滞在初日に盗難にあうなんて恥ずかしい……という意味の分からぬ虚栄心にとらわれてすぐ盗難届を出すこともせず、わずかな金と通じないスマートフォンだけを持って、数日間マンハッタンを放浪するはめに。やがて奇妙な精神的、身体的な変化が彼に訪れる。

 自意識過剰な主人公、名前が葉太とくれば、『人間失格』の葉蔵が思い出されるが、葉太も中学生で『人間失格』を読んで心酔したとある。自分のすべてがそこに書かれていると思い、以降太宰の作品を読み漁ったというのだ。ただし、葉太は性欲に対しても「恥」の意識を持っており、女性との関係にズブズブはまりこむこともないのだが。つまり本書は葉蔵のような人間が現代にいたら? という設定として読むこともできる。

 青臭い自意識には二種類ある。人に認められたいという自己顕示欲と、人から批判されたくないという自己防衛欲求。葉太の滑稽なところは、正反対の向きを持つこのふたつのベクトル、どちらもが肥大化して、引き裂かれそうになっているところだ。認められたいけれど、批判はされたくない。旅先で友達に自慢できるような体験をしたいと望みながらも、父親のようにしゃらくさい人間だとは思われたくないというわけ。だからいつも自意識を働かせて、誰の目からみても馬鹿にされない自分でいようとしている。そういう自分を演じている気になっている。

 葉太の滑稽さは特別ではない。たとえば昨今のSNSを見ていればそれがよくわかる。そこは自分を主張したい、でも批判は受けたくないという意識にあふれている。自分自身は傷つきたくないから、匿名でもって他人に悪意をぶつける人間も大勢いる。SNSの中だけで、現実とはまた違う自分像を作り上げている人間もいる。そこではみな、何かしらを演じているのだ。もちろんそれは他人事ではなく、自分の中にもそうした意識は存在しているという自覚はある。

 では、演じる必要がなくなった時、人はどうなるのか。パスポートもカードも失って、何者でもなくなった葉太は、いってみれば他者の目を気にしなくてよい状態、自分を演じる必要のなくなった状態に置かれたことになる。ニューヨークの街を彷徨していくなかで彼は何をどう感じるのか。「人生は舞台だ」というシェイクスピアの言葉はあまりにも有名だが、その舞台から降りて生き続ける時、人は何を思い、どう振る舞うのか。著者は葉太を極限状態まで追い詰めて、その行動を追っていく。それはまるで、小説において思考実験を行っているかのよう。自意識と闘って、そこから自由になろうと試みてきた西加奈子が、本当に自意識を失った時に人はどうなるのか、そしてその状態からどう抜け出すのかを真剣に考えて取り組んでいる。人生という舞台において演じる意味を、葉太と一緒に知ろうとしている。彼女はまた、新たな一歩を踏み出しているのだ。

 昔テレビで芸人が「生きてるだけでまるもうけ」と言っているのを聞いて咄嗟に思ったのは「自分の場合は、生きてるだけで恥さらしという感覚だな」ということだった。20年以上前のことになるが、その時に思いついたこの殺伐とした言葉はずっと自分の中のどこかにある。本書を読みながら何度もその言葉を思い出した。そして読了した時、ああ、恥さらしと思いながらも、それでも、自分はずっと生きてきたのだな、と実感した。またひとつ、西加奈子に気づかせてもらったことになる。