〈世界史〉の哲学 東洋篇

大澤真幸

3520円(税込)

世界史殺人事件中盤

大澤信亮

 なぜ、地球上の一地域、しかも、紀元前八五〇〇年から西暦一四〇〇年頃までの一万年間、地球上でもっとも発達が遅れた地域だったヨーロッパで始まった資本主義が、地球規模で人類全体を規定する普遍性を獲得したのか。大澤真幸氏は、自身の出自である社会学の元祖マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』および最晩年の未完のプロジェクト「世界宗教の経済倫理」を睨みつつ、その根本的な原因をキリストの磔刑に求める。より正確には、その死において示された未曾有のロジックが、解けない謎を人類に埋め込み、それを解こうとすることが、結果的にヨーロッパを普遍化していくことになった、と。どういうことか。

 私たちは、ある国家の盛衰について、外敵や風土や資源などの物理的要因から考えることに慣れている。これは間違いではない。だが、大澤氏は、社会学的な比較の手続きを丁寧に積み重ねた上で、そのような物理的条件からは説明できない謎へと切り込んでいく。

 神が人として死ぬ。この奇妙な事件は、イエスが神か人かという事実問題を超えたところで、ヨーロッパを規定した。なぜか。前提として、ロジックそれ自体が持つ、普遍性・超越性がある。あるロジックの発見は――たとえば映画『2001年宇宙の旅』のモノリスのように――快苦や強弱に支配される動物的人類に外から訪れ、精神や身体の組成を組み換える。その力は抗し難い。だが、より具体的な理由としては、キリストの死が、人類が石器時代から一万年以上も続けてきた経済システムである「贈与」のリミットを示していたということがある。どういうことか。

 私たちの社会は商品交換をベースにしている。それぞれが生産した商品は、貨幣と交換され、それによって生活が維持される。しかし、このような経済システムが全面化するのはこの数百年のことで、人類の経済の大部分は長らく贈与――その変型としての互酬性と再分配――によっていた。その根本には、生きることを神=自然からの贈与とし、死ぬことを神=自然への贈与とする、ほとんど種的と呼びたい存在感覚がある。この「神への贈与」というロジックは、先史時代のアニミズムにおける供犠から、ユダヤ教その他の宗教に至るまで、広範に確認される。キリストの磔刑もこれに連なる。しかし、そこでは人の子であるイエスが、人類のために自らを神として神に贈与するという、形式化すると奇妙に複雑な贈与が生じている。しかも、これは単なる論理的な謎かけではなく、イエスの振舞いから窺える、彼の実践的な贈与感覚と直結していた。つまりこういうことだ。

 キリストの死は人類が蓄積してきた贈与のレベルを更新した。ヨーロッパ社会がそれを完遂できたわけではない。しかし、そのような贈与に緊張し続けてきた社会から生まれた経済と倫理が――あるいはヴェーバーに倣えばその謎を解こうとする過程で鍛えられてきた合理性が――その手前で停滞した他地域を席巻する。これが『〈世界史〉の哲学』の基本構図である。この一大プロジェクトは「古代篇」と「中世篇」を経て「東洋篇」に入った。

 十二世紀の中国は、経済的にも政治的にも軍事的にも、地球上でもっとも進んだ地域だった。それがなぜ西洋の後を追うことになったのか。様々な論点が出されるが、なかでも興味深いのは、中国における漢字の意味だ。

 最古の漢字である甲骨文字にはミステリーがある。ほぼ完成された状態で発見されたにもかかわらず、それ以前の文字がまったく発見されないのだ。氏は白川静の漢字学に依拠しつつ、その理由を、初期の文字が文身から発生したためと推理する。甲骨文字が、神とのコミュニケーションに用いられた事実を考えれば、その身体もおそらく、神に犠牲的に贈与された。中国は王朝が代わっても文字が引き継がれた。有名な科挙の制度も、文字への信仰が前提にある。つまり、中国における神は、儒教よりも文字に宿っている。この上に朝貢という再分配システムが広がった。

 だが、神との贈与関係を紙上の字のレベルに移したことが、結果的に、地上を人として歩き回った神のレベルに及ばなかった、そう考えられないか。近年言われる「中国化」とは、すでにそのリミットが西洋自身にも忘却されたあとでの、二次的な世界化に思える。

 同じことが仏教にも言える。氏は、飲食についてのブッダとイエスの態度が、両者の決定的な違いだったと述べる。それはインドのカースト制とともに考察される。カースト制は、最上位のバラモンの上にいる神が、人間たちを食べるという論理に貫かれている。上にいる者が食べる。下にいる者は自分を嫌々贈与する。ブッダはこの構造を激しく嫌悪した。そして、自らの欲望を断つことで、この暴力の無限輪廻から出て行こうとしたのだ。

 だが中国と同じくインドもまたヨーロッパに敗れた。食べることの拒否として示されたブッダの悟りは、贈与を個的に拒絶するものであり、それは最終的に、提供された食事を無理に食べての死に行き着く。それは、飲食を積極的に望んだその先で、最後の晩餐で示した「自分自身を食べさせる」というイエスの実践に及ばなかった。氏はイエスを革命家と呼ぶ。たしかにイエスの死は、儒教や仏教とは違い、倫理的にも経済的にも世界を変えた。だがこれは事件の真の解決ではない。

 たとえば驚くべきことに、この七百頁を超える大著は、なぜ東洋が西洋に敗れたのかという問いに回答が与えられぬまま、〈まだ終わっていない〉という言葉で終わる。思わず「早く結論を出せ」と言いたくなるが、そういう性急さこそを氏が警戒していることに注意しよう。氏の長い道のりは「古代篇」の〈資本主義を超える――あるいは資本主義に代わる――普遍性を有する社会を構想しうるか〉という一点に捧げられている。結論の先送りは、それ自体資本主義的とも言えるが、上質のミステリーの条件でもある。私もまた、社会学探偵にじらされながら、その日を待ち続けたい。