寂しい丘で狩りをする

辻原 登

定価(税別):1,600円

ゆがんだ男たちの生々しさ

池上冬樹

 辻原登というと純文学の作家のイメージが強いけれど、陰謀と裏切りをめぐるスパイ小説であり、男と女の波瀾に富む恋愛小説でもある『ジャスミン』、語りが華麗に輻輳するメタ・ミステリ『円朝芝居噺 夫婦幽霊』、ゴシック・ノベル『抱擁』、時代小説にスパイ小説と冒険小説を加味した『韃靼の馬』、荒々しく鬼気せまるノワール『冬の旅』とミステリに対してきわめて親和が強い。『東京大学で世界文学を学ぶ』『熊野でプルーストを読む』などをあげるまでもなく、辻原登は古今東西の文学を知り尽くし、それを実践してきた作家であり、純文学作家なのにたぐいまれな技巧で物語をつむぎ、ときにミステリ作家も及ばない巧緻な作品を仕上げる。スリリングでありながら豊饒。最新作『寂しい丘で狩りをする』も例外ではない。

 前作『冬の旅』は殺人犯が刑期を終えて出所した場面から始まったが、今回は、殺人事件で服役した過去をもつ男が判決を言い渡される場面から始まる。

 被告の押本史夫は、婦女への強姦致傷、窃盗、恐喝未遂の罪で懲役七年を言い渡されるが、強姦なのに長すぎると思った。判決の報告を受けた被害者の野添敦子は強い不安を覚える。警察に届けないと約束したのに届けたのは約束違反だ、彼女も濡れていたから気持ちよかったはずだと強弁して、押本がまったく罪の意識をもっていないからだ。やがて知り合いのジャーナリストから、押本が同房の男に、出所したら女の居所を探し出して殺してやりたいと話していることを聞かされる。

 七年後、「イビサ・レディス探偵社」の女性探偵桑村みどりは、自分が尾行されていることを知る。元交際相手のカメラマン久我から逃れるべく、転居したばかりだったのに、莫大な遺産で暮らす久我は探偵を雇い、みどりの転居先を探し当てた。

 そんなみどりに新たな依頼がくる。依頼人は野添敦子だった。出所する押本を尾行して、報復するつもりかどうか本心を見極めてほしいというのだ。

 追う者と追われる者の物語である。エピグラフに、「たしかに、狩りをするなら人間狩りだ。武装した人間を狩ることを長らくたっぷりと嗜んだ者は、もはや他の何かに食指を動かすことは決してない」(アーネスト・ヘミングウェイ「青い海で――メキシコ湾流通信」)とあり、明らかに女性たちを追う者、すなわち押本と久我のことを指しているのだが、探偵として調査という狩りを続けるみどりが加わり、追う者と追われる者の対決は、ときに立場が逆転して、実にスリルに富む展開となる。追う者が追われる者になり、追われる者が追う者になる。どのようにして相手の行動を読み、いかにして相手の力を封じ込めるのか。いかに有利な立場をとって勝利をおさめるのか。この頭脳戦がサスペンスを生み、ぐいぐいと読者を引っ張っていく。まさにミステリである。

 しかも辻原登の凄いのは犯罪者たちの描写である。犯罪小説は悪役が冴えないと生彩を欠くが、辻原登は実によくゆがんだ性的欲望をもつ男たちの肖像を生々しく彫りあげる。『冬の旅』もそうだったが、場末の汚らしいドヤ街や古びたピンク映画館などの猥雑きわまりない、いかがわしく剣呑で醜悪な場所を不埒なエネルギー生成の場にかえて、人を殺すことに何の躊躇いもない男の内面を実に嬉々として艶やかに描ききる。みどりに暴力をふるう久我も、偏愛する写真家のヘルムート・ニュートンを語り、悪辣な欲望を甘美な芸術のように錯覚させて、嗜虐のエロスの一端をなまめかしく捉えてみせる。

 この押本と久我の描写はもはやストーリーに奉仕する役割をはみだして(つまりミステリのジャンルをこえて)、物語がどこに転がるかわからない存在感を放つ。それこそが辻原作品が豊饒である所以だが、もうひとつ、事件と並行して詳しく語られる敦子のフィルム・エディターとしての細部も象徴的な響きをもつ。事件とは無縁の戦前の幻の映画への愛、とりわけ『人情紙風船』で知られる映画監督山中貞雄のデビュー作『磯の源太 抱寝の長脇差』(一九三二年)の存在が熱く語られ、後半は幻のフィルムが発見されて、敦子は修復作業に夢中になっていく。狂気と恐怖と憎悪のかたわらで。

 しかし、映画フィルムは熱と湿気にきわめて弱い化学繊維でできているために、リールからフィルムを引き出すだけで折れたりちぎれたりする。そのボロボロの状態を見て、敦子は強姦された雪の夜を思い出す。ゴミ集積所の中で、殴られ、首を絞められ、犯されて、殺されるかもしれない、殺されないためにはボロ人形か死体になったふりをしたほうがいいと思った。ああ神さま、という声にならない叫びをあげたが、それと同じ叫びを、目の前のフィルムがあげていて、わたしを見捨てないでといっていると感じる。フィルムの修復作業とは、傷ついた自分自身の精神と肉体の修復にほかならない。

 だがしかし、押本もまたもともと映写技師であり、興趣をそぐので説明しないが、意外な繫がりをもつ。作者はさまざまなディテールを駆使して、不思議と絡まりあう人生模様(映画と犯罪と恋愛)を数十年のスパンを通して残酷かつ背徳的に、きわめて暴力的に、だが何とも不思議なことに、最終的には、ある種の華やぎとともに描きだしている。

 最後は、横浜のホテルニューグランドの五階のフレンチレストランが舞台で、みなとみらいであがる花火を見る。遠くの花火を見る主人公たちの優雅さと落ち着きは、まるで舞踏会のホールのバルコニーにたつ姿を想像させる。いや、実際辻原登は、ある文豪の名作の台詞を引用しているので、人生という舞踏会を示唆しているのだろう。殺人と、レイプと、復讐と、恐怖にみちた舞台こそ、現代の精神の舞踏会であるといいたいかのようだ。