金を払うから素手で殴らせてくれないか?

木下古栗

定価(税別):1,500円

テクニシャンなデストロイヤー

豊﨑由美

 たとえば「ラビアコントロール」(『ポジティヴシンキングの末裔』所収)という短い小説がある。〈難病で病院のベッドに伏す可憐な少女の声が聞こえる。/「物語を聞かせて……」〉から始まる話の次の段落は、こう。

〈まったくもって毛深い体質ではなかったはずなのに、ある朝、純一郎が目覚めると、手足が自らの陰毛によって緊縛されていた〉

 その次の段落では、全裸で寝ている真面目な新米看護婦の祥子のラビアが巨大化し、バサッバサッと力強く羽ばたいて、空を飛ぶエピソードが置かれてある。

 一行空きで始まる次の段落では、転職先の大手出版社に居づらくなった純一郎が、〈それから五年、随分と色々な経験したものだ……〉という感慨にふけりながら並木道を歩いていると、頭上に〈全裸の女が巨大なラビアを躍動的に羽ばたかせて飛行している〉のを発見。助けを求める女に〈ラビアを、ラビアをコントロールしろ!〉というアドバイスを送るのである。

 そして物語は最終段落を迎えるのだが、それはこんな風。

〈その後、今日から始めたキャバクラの呼び込みの仕事は、発声練習したに等しい万全の状態で臨んだ為、出だしから絶好調だった。/「安いよ安いよオ! キャバクラだよオ!」〉

 あるいは中篇「いい女vs.いい女」(『いい女vs.いい女』所収)にある、美術館の地下0.5階で行われているという〈男性限定の参加者たちが「極限Vネック」と名付けられた限界までVの深い、Vの最下部が裾にまで達して糸一本でかろうじて繫がっているだけのVネックTシャツを素肌に着用して、誰が一番最後までその糸を切らずに、すなわちVネックを維持したままでいられるか、という過酷な競技〉Vネック耐久レースの描写はどうだ。

 はたまた「教師BIN☆BIN★竿物語」(『いい女vs.いい女』所収)なぞというタイトルはどうなのか。

 小説から何かしらの教訓や学びを得たいと考えている読者の眉をひそめさせ、小説にわかりやすい人物造形や読みやすい文章やページターナーなプロットを求める読者を辟易させる作家、それが木下古栗。「必読!」とか「誰にでもおすすめできる」とかいった書評のクリシェが使えない作家、それが木下古栗。カルト的な人気はあっても本屋大賞のベストテンには未来永劫決して決して決してランクインしない作家、それが木下古栗。

 古栗はシニフィエ(意味内容)とシニフィアン(音声または能記)を一致させません。古栗は平気で物語を断絶したり放置したり迷走させたりします。古栗は中学生男子レベルの下ネタが大好きです。古栗は説明が必要なところではそれを無視し、物語上さして重要とも思われないエピソードの説明は怠りません。古栗は小説と遊ぶのが好きですが、可愛がりすぎるあまり首をひねって殺してしまったりします。古栗はデストロイヤーです。古栗は一見ハチャメチャです。古栗はそう見えて実はテクニシャンです。

 約三年ぶりとなる作品集『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』も、まあ、そういったような感じだと思ってよござんす(浅香光代風に)。アメリカ人青年ハワードと彼が愛する女性の両親が歓談する短いシーンから一転、娘の遺影を抱えた中年夫婦に見送られ、彼が帰国するシーンへと切り替わるシークエンスで始まる「Tシャツ」は、収録三作品中もっともわかりやすい物語にはなっているものの、中年となったハワードが再来日を果たし、義理の両親と再会し、ご近所さんと交流するという本筋が例によって例のごとく読んでいるうちに本筋感を失っていく中、とんでもなく飛躍した結末へと連れ去られて読者としての無力感に茫然とさせられる、そんな小説になっているのだ。

 今は亡き妻の実家のまわりをうろちょろしていたハワードに声をかけてきた長岡夫人に、サーフショップ兼古着屋を営む清水とその妻まち子に引き合わされ、その二階の空き部屋に住まわせてもらう。やがて清水家の息子高志とその友人たちにも慕われるようになり、空港で別れたきり音信不通だった義理の両親鈴木夫妻に不義理を許してもらい、コミュニティに溶けこんでいき――と、こうして一見人情話風の粗筋を書いているのがバカバカしくなってくるのが古栗文学の古栗文学たるゆえんで、物語中盤、ハワードの動向がまったく読者に知らされないようになり、ゴディバのチョコレートを食べ過ぎて死にそうになるというくだらないエピソードが光るまち子というおばさんキャラクターが、これまでの真面目で地味な生活を改め〈やりたいようにやってやろうじゃないの〉と一念発起して以降は、ソローキン『ロマン』の伝説的なラストを彷彿させる「まち子が○○する」文章の執拗なまでの羅列に啞然。ハワードがどうして途中から物語の中に姿を見せなくなったのか、その理由が明かされて呆然。

 段落が変わって初めてその前段が五年前の話だったことがわかったり、それまで語られていたエピソードの内容とは何のつながりもない話が急に始まったりといった古栗テイストと言っていい奔放な記述にいちいち躓かされ、こづき回されるうち、自分が一体何を読まされているのか見当識を失ってしまう。その心地こそが古栗の麻薬的な魅力であり、一度味わってしまうとクラクラをまた経験したくて手を出し、やがて廃人読者になりかねない危険な作家なのである。

 社長の愛人のふりをして社長夫人に謝らなければならなくなった“OL”の物語を読まされているつもりが、最後の最後でうっちゃりをかまされる「IT業界 心の闇」。米原正和が失踪したから捜しに行くという米原正和に連れられて、やがて自分たちが世界から見失われてしまう視点人物&鈴木の不毛な捜索行を描いて不穏な表題作。小説が自由であることを実感したければ、木下古栗の小説を読めばいい。改めてそう確信させてくれる、「ふてえ野郎だ」的三作なのである。