屋根屋

村田喜代子

定価(税別):1,600円

静かな場所

松浦寿輝

 築十八年の木造の家で雨漏りが始まった。やって来た「屋根屋」は五十代半ば、禿頭で猪首の無骨な大男。修繕工事の合い間に当家の主婦の「私」とぽつりぽつりと世間話を交わすが、そのさなか、意外なことをふと口にする。毎日欠かさず「夢日記」を付けているという話をした後、夢の話題に「私」が乗ってきたのを見てとると、「奥さんが上手に夢を見ることが出来るごとなったら、私がそのうち素晴らしか所へ案内ばしましょう」と不意に提案するのだ。そこから始まるのは、一種不思議な味わいをたたえた異色の恋愛譚である。

 ふつう、人の頭上に天井があり、その上にあるものが屋根であるから、屋根は住人の目に入らない。往来から見上げても、部分的にはともかく屋根の全貌を視野に収めるということはまず不可能だ。屋根全体が見えるのは唯一、高所から見下ろす場合だけだが、そんな都合の良い高所がそうそうあるものではない。しかもそれは、慣れない素人がうかうかと上を歩くと、地面まで転落して大怪我でも負いかねない危険な場所でもある。つまり屋根とは、雨露を凌ぐために絶対に不可欠であり、人の暮らしの基盤――基盤が頭上にあるということ自体が奇妙な逆説なのだが――それ自体でありながら、しかしなおかつふだんの生活においてはわれわれの身体から遮断された、不可視にして禁断の聖域なのである。

 しかし、いざその場所に足を踏み入れ、「二歩、三歩とカタリ、カタリと静かに歩いて」みると、「足裏に瓦は意外に柔らか」く、そこに身を置くことの思いがけない心地好さに驚かされる。「屋根は静かな場所なのだった」。屋根の魅力に卒然と目覚め、「私、屋根の夢が見たいんです」と口走ってしまう「私」は、自分でも気づかぬうちにいつの間にか、単調で波乱のない日常から逸脱してみたいという欲望を発酵させていたらしい。そして、その欲望に応えてくれる得がたい人物が、今まさに目の前にいる。この男は職業上、「屋根」というこの聖域を思うさま跳梁できる特殊能力を備えているが、そればかりではない。彼は自分の見たい夢を自在に見ることができ、のみならず他人の夢の中に入り込んだり、自分の夢の中に他人を招き入れたりできるという異能を併せ持ってもいるのだという。

 この謎めいた案内役に導かれ、「私」は夢の中で、奈良や京都の寺、フランス各所の大聖堂など、名立たる「屋根」への旅を繰り返す。それは心浮き立つデートとも、教養を深めるための篤学な見学旅行ともつかない曖昧な道行きだ。一見、「私」は夫と一人息子との暮らしにさしたる不満を抱いておらず、「浮気」「不倫」の生臭い現場にまで踏み込むつもりはないようだ。にもかかわらず「屋根屋」との付き合いにはおのずと仄かな性愛の香りが漂い出し、「私」は当惑するが、しかし「私」自身、その当惑を愉しんでいる気配もないではない。実際、妻を癌で亡くして以降鰥夫暮らしの久しいこの五十男は、二度にわたって、抑えかねた恋情を突然吐露するように、「ここで一緒にずっと暮らさんですか」と彼女に迫ってきたりもするのだ。

 むろん、あくまで夢の中の話ではある。しかし、自他の溶け合った無意識界での逢瀬は、現実世界で軀を重ね合わせるよりも、官能の濃度はかえってより深いとも言える。村田喜代子氏はありきたりの「不倫小説」に粋なツイストを利かせる、何とも洒落た仕掛けを考えついたものだ。夢は、古今東西の文学作品で嫌と言うほど使い古されてきた、陳腐と言えば陳腐な主題だが、「屋根」という意表を突いたモチーフと組み合わされることで、新鮮な物語的趣向として蘇生し、節度と抑制を知る大人同士の仄かな交歓の物語の、絶妙な道具立てになっている。

「明晰夢」の技倆に熟達するにつれて「私」の無意識はますます豊かな自由を得て、相棒の「屋根屋」ともども奔放に宙を飛翔する。この浮遊感が何とも爽快で、屋根という場所のユートピア的な快楽性と相俟って、浮き浮きするような心躍りを読者のうちに喚起する。迫真感漲る夢記述の魅力と言えば内田百閒などがまず思い出されるが、村田氏の筆の冴えもそれにおさおさ劣るものではない。

 だが、屋根から屋根への巡礼は最後に法隆寺の五重塔の、「親も子も夫も妻もなく、犬も猫も鳥もいない」寂寞をきわめた無の場所に逢着する。そこで「屋根屋」は奈落に落ちて姿を消し、「私」は独り現実へと帰還するのだが、事ここに至って、「いったい、いつから後が夢だったのか。いつから前が現実だったのか」、もはやその境が判然としなくなっているのに気づいて「私」は愕然とする。いったい「屋根屋」はどこへ消えたのか。いや改めて考え直してみれば、そもそも彼は最初から実在していたのかどうか。

 もとよりこれは「私」の視点から物語られた一人称小説であり、相方の「屋根屋」の本心は終始読者に明かされない。ひょっとしたら、一切合財はことごとく「私」の空想にすぎず、夢の中であなたと一緒にあそこへ行った、あんなことがあった、等々、独り合点で言いつのる中年女性の妄想癖に、心優しい「屋根屋」のおっさんは、少々持て余し気味に、しかしそれでも一生懸命話を合わせてくれていただけなのかもしれない。この話の全体をそんなふうに読み直してみることが作者の意に沿うかどうかはともかく、それはそれで、本書の本筋とは別のもう一篇の面白い物語が出現するようにわたしは思う。

 というのも、本書の中核をなすのは結局、孤独の心情にほかならないからだ。これは静かな孤独をひっそりと耐えている二人の男女の物語なのである。結末近く、夢に現われた「屋根屋」は自分の仕事である瓦積みを「私」の家の二階の屋根で行なっている。「カタリ、カタリと永瀬はリズミカルに瓦を積んでいく。瓦は素焼きの土器に似た、素朴な懐かしい響きを立てる」。本書で何度も繰り返されるこの「カタリ、カタリ」という音は美しい。この「カタリ、カタリ」こそ、人間の孤独それ自体の立てる音なのではないか。