ある日の結婚

淺川継太

1650円(税込)

快楽の湖面に溺れる者は、最後になにをみるのか

池田雄一

 三つの作品はいずれも、快楽に溺れることについての物語である。ここでは主に表題作「ある日の結婚」をあつかうことにしよう。

 都会にいる人々の匿名性と、プラトニックな感情というのは、じつは相補的な関係にある。互いに知ることもないからこそ、特定の出会いが奇跡だという感覚がリアルに思われるのである。もちろんそのような感情とストーキングという行為は無縁ではない。

 本作の主人公もまた、こうしたプラトニックな感情に支配されている。「ぼく」は、通勤の途中で見かけた「彼女」のイメージにとり憑かれる。やがて彼の想いは具現化され、「ぼく」と「彼女」は、たがいに求め合う。しかしながら、その想いは留まることを知らず、やがて互いを「食べ合う」ようになり、ついにふたりは合一化を果たすのであった……。

 求め合うふたりの合一化という主題は、プラトンの昔から、反復して語られてきたものである。むしろ本作品の功績は、王道を王道として描ききったことにある。その結果として浮かびあがったのは、人が何かに溺れる、というモチーフである。

 食べ物を口に入れるときの快楽、深い眠りに落ちるときの快楽、肌と肌とを密着させることの快楽、こうした経験において人は完全に受動的な状態になる。しかし一体それは何に対して受動的であるのだろうか。たとえば、栄養を補給する必要や、脳を休養させる必要といったものと完全に無関係ということはないだろう。しかし、肌と肌が触れることの快楽はどうだろう。あれはどのような必要によるものだというのだろうか。

 こうした快楽の受動性について明確な観点をあたえてくれるのが精神分析理論である。その方面の専門家である立木康介が、リビドーによる身体の乗っ取りという、ある意味不気味ともいえる現象を紹介している(『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社)。リビドーとは、フロイトによって提唱された、性的興奮におけるエネルギーのことである。

 フロイトによれば、人間の性的興奮は性欲動にもとづいている。性欲動は三つの段階をへて発達する。すなわち「口唇期」「肛門期」「男根期」という三段階である。最初の段階にあたる口唇欲動の発生はこうである。赤ん坊はまず生理的欲求にもとづいて、母親のさしだす母乳もしくはミルクを口にして体内にとりいれる。その過程をへて、赤ん坊の口と母親の乳首が接触する場所、あるいは母乳やミルクが流れ込む口のなかや喉といった場所に、生理的な欲求から切断された快感が発生する。それが最初の性欲動である。この性欲動が、肛門、男根と、その住処を移動させていくというのが、フロイトの性欲動の段階的発展と呼ばれる仮説である。

 こうしたフロイトの仮説をもとに、この性欲動がやがて人の身体すべてを支配するという仮説を提唱している。立木は、クリストフ・ドゥジュールによる「生物学的身体」と「エロース的身体」という二つの身体の仮説を参照しながら、人間の身体全体が「リビドー化」していく過程を描いている。すなわち、性欲動は、もともと生理的欲求から派生したものに過ぎないのだが、やがてそれは自律的な能動性を獲得し、ガン細胞のように増殖していき、やがて身体全体を覆ってしまうのである。

 立木によるこの仮説において重要なのは、人間が主体的、能動的に行動するにあたっては、この「リビドー化」が不可欠な過程だということである。つまり、人間はもともと生理的機能つまり本能が破損しており、その人間が主体化するにはこうした性欲動による能動化が欠かせないのである。

 たとえば、松波太郎「イベリア半島に生息する生物」には、身体がふたたびリビドー化することによって、新生物として「覚醒」したサッカー選手が登場し、身体が何ものかに乗っ取られる様がスローモーションのように描かれる。あるいは、最近の羽田圭介の作品ではマゾヒズムが主題として前景化されている。「トーキョーの調教」「メタモルフォシス」といった作品では、主人公が過激なSMプレイを積極的に受けているが、これは、自らの身体を人為的にリビドー化しようという、一種の求道的な試みとして解釈できる――主人公の職業が、アナウンサーやデイトレーダーといった規律訓練的な職業であることに注目されたい。

「ある日の結婚」は、こうしたリビドー系の作品群の、フロントラインに位置する小説である。たとえば赤ん坊による母乳の摂取という行動は、否応なく「カニバリズム」を想起させるものである。カニバリズムが、ときに宗教的な儀式と密接にむすびつくのは、それが、自然と文化の中間に位置していて、かつこのふたつの領域を媒介するものだからである。「ぼく」と「彼女」は、求め合いの結果として互いの身体を「食べる」にいたる。そこには人肉食という行為から連想される生々しさは、いっさい描かれていない。むしろ二人の「求め合い」は非常に抽象的に描かれている。ここでは、プラトニックな恋愛感情とカニバリズムが、矛盾することなく、たがいに補い合う関係にあるのだ。

 やがて主人公は、彼女と一体となり、ひとつの身体として再構成される。「ぼく」は彼女の身体に溺れ、「彼女」はぼくの身体に溺れる。それは、リビドー化する身体の、快楽に溺れる身体の寓話でもあるのだ。

 しかしながら、本作品の本当の価値は、主人公であるこの「ぼく」が、快楽=彼女の身体に溺れる寸前の光景を描ききったことにある。考えてみれば、本書に収められている作品はいずれも、主人公が消滅するまでをあつかった作品でもあるのだ。快楽の湖面に水没する直前に世界をみやる主人公の視線は、まるで赤ん坊のように純粋である。ここに本書の最大の魅力があり、本書の倫理もまた、ここに賭けられているのだ。