たまもの

小池昌代

定価(税別):1,700円

宝物のありか

野崎 歓

 子供だけが、現実に生きることを知っている。大人はただ幻想の中で生きるだけだ。

 オーストリアのある小説家がそんなふうに書いていた。もしその言葉が正しいとすれば、大人にとっては子供もまた、幻想の中で、幻想をとおしてうかがい見るしかないのだろう。そしてまた、そんな自分の限界をひしひしと感じさせずにはおかないからこそ、大人にとって子供は唯一無二の存在となるのではないか。

 語り手の女性のもとに、幼なじみの、かつて数年つきあっていたことのある男が、一歳にもならない赤ん坊を連れてやってくる。母親は出産直後に事故死した。必ず迎えに来るから預かってくれないかというのだ。それがすでに四十歳をすぎてからのことで、以降、女手一つで男児を育ててきた暮らしが、十年後の地点で語られ、回想される。

 自分で産んでさえ大変な育児を、いきなり押しつけられて、まっとうできるものだろうか。ところがこの小説を読みながら、不思議にもそう問うてみる気が湧かない。それどころか、赤ん坊とは本質的に、突然「託される」ものであって、託された側はただ、それをいとおしみ、大切に守りつつともに生きていくほかはないという事実が、揺るぎない形でとらえられているように思える。「産んだ者の所有権」とは無縁の、理屈が介入する余地のないほどの何か根底的な絆の力が、そこには働いてしまっている。だからこそ、預けられた赤ん坊は徐々に、「わたしにそっくり」の子供に育っていくのだし、同時に育ての親としては「生涯、むくわれるはずもない片恋」に近いような張りつめた心もちを日々、失うことはない。その様子は、「血の繫がり」がないがゆえにいっそう鮮やかに、大人と子供、親と子の関係の絶対的な性質を浮き彫りにしているように思える。

「シャーペンの芯でつきさせば、容易に皮を突き破って、小さな心臓なんか、止まってしまうかもしれない。そんなものと比べたならば、世の中の、ほとんど全てのものは、放っておいてもいいものである」。にわかに出現した赤ん坊に対峙して語り手が抱いた感想である。むきだしの生命のあまりの脆弱さに胸を揺すぶられるとき、大人のほうがむしろ小さな生命の支配下に入ってしまうのだ。その育ちゆく姿に心を奪われ、「子供って綺麗だなあとしんから」感嘆するばかり、息子ののどから出てくる「臭玉」の異臭さえ嬉しいというありさまになってしまう。子供という「宝」の重さに圧倒されて、子を預かる親は宝を隠す「盗賊」めいた、後ろめたくもあり、やるせなくもある気持ちさえ抱かずにはいられない。

 実の子ではない子供との共生という設定を梃子として、見事な「親子」物語を生み出した先例はいくつか思い浮かぶ。たとえばチャップリンの監督・主演作『キッド』はどうだったか。ひょんなことから赤ん坊を拾ったチャーリーがその男児と育む愛情はまさに、「世の中の、ほとんど全てのものは、放っておいてもいい」というほどのものだった。しかし、固く抱き合って唇と唇をあわせる父子の姿が『キッド』のエンブレムだとしたら、『たまもの』の母子の関係ははるかに慎ましく、そしてある種の儚さ、淋しさに浸されている。連絡を絶ったきりの実の父親が、いつかは子どもを取り戻しにやってくるのではないかという恐れが消えることはなく、どのように子どもと別れるかがこれからの課題なのだという意識が、「母」の胸のうちでは強まるばかりである。だがそれもまた、ここに描かれた事情の特殊さゆえのこととは思えない。むしろ、あらゆる親子関係のうちに最初から書き込まれた巣立ちや別れのつらさが、預かった子という設定によって、ひときわ純粋に形象化されているのだ。雪の積もったある日、息子の姿が不意に見えなくなるという印象的な挿話が、離別はすでにして日々刻々、起こっていることを清冽に示している。

 愛情が同時に哀惜につながるような情念のあり方が作品全体におよんで、無常観に近い境地が漂い出す。語り手は母としての役割に殉じているわけではなく、旧知の男たちとときおり逢瀬をもつ。母子家庭からのゆるやかな逸脱が、作品にエロス的な豊かさを与えているのだが、しかし相手の男たちは老いのしるしを刻まれ、ほとんど精気を感じさせない枯れ方である。逢うごとに別れと死の想念が濃くなるつきあいのうちには、もののあはれ的な情緒や幽玄さすら宿るかのようだ。

 それに対し、人生のスタート地点にいる子供がいかにみずみずしく輝いていることか。百人一首の歌にちなんで名づけられた「山尾」君という小学生の姿は、むしろぐっと抑えた筆致で描きとめられているのだが、抵抗できないほどの魅力を放っている。学校から帰って、普段は仕事で出ている母が家にいると「花のように」顔を輝かせる「山尾」。「火の玉」のように体が温かく、靴下をすぐにぬぎ、風呂上りには「青いたけのこのよう」なちんちんをぶらぶらさせ、しょっちゅう歌を口ずさんでいる。同級生からの年賀状が嬉しくてふとんの中にもちこんで幾度も読み、たまの外食のときには「これ、高いよね、ごめんね」と謝りながらひれかつ定食をもりもりと食べる。かと思えば「年をとるといつか、死ぬよね」と唐突に母に尋ねる。そんな男の子のふるまいのいちいちがじつに素晴らしく、可愛らしく、一種気高ささえ漂わせて感動的で、やはりこれは何といっても「たまもの」に捧げられた、そして「たまもの」を共有させてくれる小説なのである。

「山尾だけが、わたしの夢見る原動力で、あとの人間については、遅速はあれど、みな、滅亡する」。確実に滅亡の道を辿っていく大人に、なおも夢を与えるのだから、子供の力は驚くべきものだ。その夢のもたらす喜びは、滅びの予感をもしのいで大きいのである。