未闘病記――膠原病、「混合性結合組織病」の

笙野頼子

定価(税別):1,800円

文学、あるいは笙野頼子という病

清水良典

 このところ身の周りの知人から次々と癌が見つかって、そのたびに慌てふためいている。ひとの病の深刻な苦しみにどう対してよいか、言葉を失うのだ。休退職や長期療養を余儀なくされる癌は、周囲に知られやすい病である。喫煙室や会議室で、暗く潜めた声で噂を耳にした瞬間から、その人の像が不吉な影で薄く縁どられ、えにしの糸が急にか細くなる。それに比べると他の病気は、自分も罹患した病名以外には、概ねピンと来ない。「大変ですね」「お大事に」と決まり文句を口にするしかないのだ。

 生前の倉橋由美子氏から深夜に電話で「耳鳴り」の悩みを突然打明けられたことがある。轟音のような耳鳴りで原稿が書けず音楽も聞けない、死にたいと大作家は会ったこともない私に泣いて訴えた。しばらくして執筆を再開されたのでほっとしたが、そのときは途方に暮れて受話器を握っているしかできなかった。他人の病への感受は、かくも低い。

 膠原病、それも「混合性結合組織病」というややこしい名前を持つ難病を宣告された著者本人に、もし対面したとしても例の決まり文句以上の言葉は出てこないだろう。しかし本書『未闘病記』は、たんなる闘病報告を超えて、笙野文学の新しい到達でなければならない。というのも、これまでの著者の作品はいずれも、未だ「病」を名指されないまま、心身の異変や不調が比類ない想像力で文学に練りあげられたものだったからである。「病」的であることは、この著者にとってずっと身体につきまとってきた常態であり、それゆえ書くという抵抗によって防衛するしかなかった。しかし、それが医学的な名指しを得たことによって、著者に過去の作品を再検討し、上書き更新することを迫ることになったのだ。つまり本書は、医学的な「病」によって検証されたセルフ&メタ笙野頼子論なのである。

 膠原病は名前だけは知られているが、実態は分かりにくい病だ。私の遠縁にも長く膠原病を患っている女性がいるが、病名を知るだけで何ひとつ実態を知ることはなかった。たとえ多少知っていたところで参考にならないだろう。本書によれば「ひとつの病名の下に患者の数だけ別の病がある、それほどに多彩な病態」だからだ。その中で「私」の場合は、四種類の症状と三種類の抗体を持つという複雑な病態であり、全身のあらゆる「つなぎ」の部分に病変が起こるという。しかも日光によって悪化するというのだ。国立病院リウマチ膠原病センターで、それが診断されたのは二〇一三年二月のこと。その二年前から「私」は池袋にある大学の大学院で初めての「お勤め」を引き受けている。その間も猛烈な関節の痛みや脱力、地獄のような疲労感と戦いながら、「私」は千葉の自宅から講義に通い、時には学生を率いて取材の小旅行に出かけてさえいた。

 身体の違和感と生き難さは、ずっと「私」につきものだった。たとえばデビュー後十年で書いた『なにもしてない』には、昭和天皇没後の新天皇即位のころを舞台に、「接触性湿疹」が進行したあげく触角が生え、光る妖精となって飛び回る幻想が描かれていた。「タイムスリップ・コンビナート」には真夏の日中に寒気を覚える場面があり、『太陽の巫女』でも寒暖の感覚の狂いが書かれていたことを、本書で「私」は思い出している。その他「跛行、鼻炎、動悸、むくみ、腫れ、倦怠、そのもたらす不安と、普通にしていられない自分への罪悪感等」に間断なく苦しめられ、人の世で人と同じに生きられない自分という存在への実存的自問を、「私」は多くの作品に書いてきた。しかしその原因が医学の見地から突きとめられ、メカニズムが名指されたとき、あたかも「ミステリーの解決編」のように過去の作品に隠れていた秘密が次々と解明されていったのだ。それはある意味では、作家「笙野頼子」にとって救いであると同時に、危機でもあったはずである。

 たとえば『金毘羅』で「私」は、自分が深海生物「金毘羅」であり、生まれてすぐ死んだ女の子の体をのっとってこの世に生まれてきた、と書いていた。さらに自らを人と異界との習合の媒体と化して「八幡」や「荒神」とも交流してきた。それらの思惟と幻想が、ともすれば医学的な「解決」によって全て一時的な夢想として氷解してしまいかねないのだ。その葛藤が本書のひとつの見どころでもある。

《つまり、自分の体がなんとなく違う、ちょっと生き難いそのあたりを創作に生かしている。思えば実に、身体は正直だ身体はなめてられない。すると、ならばこの「金毘羅」の正体って難病なんだろうか。いや、ていうか元々これは笙野病という個人的病だもの、つまりその正体は既に文学と化しているね。だったらもうこれはそのまま「金毘羅」でいいんじゃないだろうか。》

 自身の人生を「病」の光で劇的に再発見しながら、同時に自身と一体化してきた文学的想像力をさらに強く止揚する。まさに「笙野頼子病」の読者にとって、本書はその「病」が基礎から築きなおされたターニングポイントなのである。

 少量のステロイドでの治療によって、症状はみごとに寛解する。あれほど長いあいだ「私」を苦しめてきた苦痛が噓のように去り、「私」は「なんでも/できる」自分に変わっている。「悪いのは脳でも神経でもなく、筋肉関節」だったのであり、「昔からの不全感や理由なく自分だけ『出来ない』悲しみ」から、ついに「私」は解放されるのだ。

 しかし「私」は「私」から解放されない。そうである限り、「私の生それ自体も持病」という根幹は揺るがない。一人の孤独や苦しみに社会的な価値はあるのか、という自問に「私」は「ある」と答える。身体がすでに他者であり、社会性なのだ、と。

 本書を再出発地点として、笙野文学はライフワークの端緒についたといえるだろう。