変愛小説集 日本作家編

岸本佐知子・編

1980円(税込)

編者と書き手の幸福な呼応

瀧井朝世

 アンソロジーは編者が肝心、と考えている。というのも、昨今は同じテーマのもとに作家たちが短篇を書き下ろす作品集をよく見かけるが、なぜこのコンセプトでこの作家陣なのかピンとこない、あるいは(裏事情など)ピンときすぎて新鮮味がない、ということがあるからだ。きちんとブレない基準を持った、個性ある目利きの編者の手によるもののほうが、明確にカラーが打ち出されていて信頼できる、と思ってしまう(そうでないアンソロジーをすべて否定するわけではない)。

 ではどんなアンソロジストが理想的かというと選ぶ作家や作品に対しての理解が深いというのはもちろん、独自のセンスを持った人、独断と偏愛を貫き通せる人だろう。特に書き下ろし作品を集めて編む場合は、ゆずれないこだわりがあってこそ妥協のない人選ができるのだし、依頼された側も編者の個性を分かった上で引き受けるのだからブレが少ない。

 その点で絶対的に信頼できるのは翻訳家の岸本佐知子氏である。これまでにも『変愛(ヘンアイ)小説集』第一弾二弾、『居心地の悪い部屋』など海外短篇のアンソロジーを発表している。前者二冊はその名の通り「変な愛」を描いた短篇集で、その好評を受けてだろう、今年の『群像』二月号において、彼女が選んだ十二人の作家が愛についての小説を書き下ろす企画があった。その単行本化作品が『変愛(ヘンアイ)小説集 日本作家編』である。

 参加作家のセレクトが絶妙である。みな日常の中に異質なものが紛れ込むような作品を発表している書き手であり、本作品集でも、個性豊かな愛、あるいは男女の風景を活写している。川上弘美「形見」は、人間が他の動物の基幹細胞から作られる世界の話。男女が夫婦となり子供を育てるシステムは我々の社会と同じで、そこにはほんのりと感情の交感もあるようだ。多和田葉子「韋駄天どこまでも」では、寡婦が生け花教室で出会った女性に心惹かれていく。〈趣味をもたなければどんな魅惑の味も未だ口に入らぬうちに人生を走り抜くための走力を抜き取られて老衰する〉などと、漢字を分解して文章の中に組み込む遊び心が楽しく、効果的に使われている。本谷有希子「藁の夫」は夫婦がジョギングしている光景ではじまるが、実はタイトル通り、夫は藁でできている。村田沙耶香「トリプル」は二人ではなく三人の男女での恋愛が若者の間で流行している世界の話。吉田知子「ほくろ毛」はファミリーレストランで働く女性が、誰かに監視されている気配を恋の予感ととらえている。深堀骨「逆毛のトメ」は体に凶器を仕掛けられた美少女ドールが人格を持った顚末を描くブラックな一篇。木下古栗「天使たちの野合」はレストランに集まった男たちが、外で誰かを待っている女に興味を持ったことからとんでもない目にあってしまう。安藤桃子「カウンターイルミネーション」は探検家が辺境の地に暮らす部族の村に滞在し、凄絶な儀式を体験する。吉田篤弘「梯子の上から世界は何度だって生まれ変わる」では世界中の電球を取り換えることを仕事にしている男と、口から景色を吐き出す女が出会う。小池昌代「男鹿」は自分に合う靴を見つけられなかった女性とシューフィッターの交流の話で、ラストはファンタスティック。星野智幸「クエルボ」は定年退職した初老の男がふとカラスに興味を抱いたことから、やがて彼に変革が訪れる。津島佑子「ニューヨーク、ニューヨーク」は離婚して疎遠になったまま死んだ元妻の思い出を、元夫と中学生の息子が語らう。まさに十二人十二色の十二篇。

 どの短篇でも、本人たちにしか理解しえない何らかの感情が動いている。他人からは共感を得られなそうであればあるほど、その感情は打算や計算や社会通念の無意識下の支配とは無縁の、純粋な心の動きと信じられる気がしてくる。「前口上」で編者が〈変愛は純愛。〉ときっぱり断言しているのもうなずける。

 印象に残るのは村田氏の「トリプル」で、主人公が男女のカップルの性交を見て吐き気をもよおす場面だ。〈……あんなおぞましいことで私は生まれたの? トリプルの、ちゃんとしたセックスで生まれた子になりたい。あんな不気味な行為で生まれただなんて、信じたくない〉とまで彼女は言ってのける。最近では芥川賞候補になった羽田圭介氏の『メタモルフォシス』でも、SMの快楽を追求する主人公の証券マンがいちゃつく男女のカップルを見て心の中で〈変態めが〉と毒づく場面があった。彼は常識や本能と思われていることを疑いもせずに享受し快楽を得ている人間たちのことを見下しているのだ。

 そう、変愛に走る人たちから見れば、通常の恋愛こそ変愛だろう。恋愛というものにおいて、何が正しいかは誰にも定義できない。今の世間で当然とされる恋愛だって、変愛のひとつにすぎないかもしれない。だからこそ、異形の愛を受け入れる人たちが魅力的に思える。彼らは本当の感情を手に入れ、本当の生を生きようとして、傍から見ればちょっと変、と思われそうな自分のことを受け入れているのだ。どの話もグロテスクでブラックで、必ずしもハッピーエンドとは限らない展開もあるけれど、読み進めるほどに胸に満ちてくるちょっぴり甘い切なさは、そんな彼らに対する憧れが源である。

 もともと岸本氏が最初に『変愛(ヘンアイ)小説集』を編んだきっかけには、世の中の「恋愛至上主義」に対する反発心があったという。それぞれの書き手が見事にその思いに応えたことは読めば分かる。彼らもそれぞれの手法で、社会通念を鵜呑みにすることに異論を提示してみせたわけだ。編者と書き手の見事な呼応があってこそ、このような幸福なアンソロジーは生まれる。