ファンタズマゴーリア

岡崎祥久

定価(税別):1,700円

ファンタジーと寓話

佐々木 敦

 岡崎祥久は、不遇にして不運、という形容が何だか似つかわしい作家である。1997年に「秒速10センチの越冬」で群像新人文学賞を受賞してデビュー、2000年に「楽天屋」で芥川賞候補、同作で野間文芸新人賞を受賞。2002年に「南へ下る道」、2008年に「ctの深い川の町」で芥川賞候補となるが、受賞には至らず。これまでに刊行した単行本は十冊を超えるが、ほとんどが絶版もしくは版元品切れになっている(もっとも同じ境遇の純文学系の作家は沢山居るが)。理論社より『バンビーノ』『独学魔法ノート』、草思社から『文学的なジャーナル』を書き下ろし長編として世に問うたが、二社はいずれも民事再生法の適用を申請した(草思社の時は刊行前後の出来事だった。ちなみに二社とも再建されている)。だからどうというわけではないが、岡崎の作風がしばしば――彼自身は会社勤めの経験がないにもかかわらず――「フリーター小説」とか「ロスト世代のプロレタリア小説」などと呼ばれてきたことを考え併せると、こんな経歴が妙に感慨深く思えて来もするのである。

 とはいっても、私が岡崎の存在を認識したのはかなり遅く、2006年の秋に「すばる」に掲載された短篇「日竹カンパニ」が意識して読んだ最初だった。当時私は毎月の文芸誌に載った小説を全て読んで順位付きで論評するという無謀な雑誌連載をしており(「絶対安全文芸時評」)、そのお陰で出会えた「日竹カンパニ」は見事、その月の第一位に輝いた。それから思い立って(主にネット古書店で)彼の既刊を蒐集し、まとめ読みして、大変好みの小説家だと思ったのである。その後、同じ連載で「文學界」2007年8月号掲載の「美女の林間の空地」も取り上げたのだが(この時は第二位)、そこで私はこう書いている。「敢て「日常の日常性」でも「日常の非日常性」でもなく「非日常の日常性」を選び取るセンスに、態度としてはかなり頼りないけど姿勢としては実に頼もしい気概を感じてしまいます」。

「ファンタズマゴーリア」は「群像」の2012年10月号に一挙掲載された。ほぼ二年の歳月を経て、このたび単行本として刊行されることになった。この知らせを受けた時、私は大層嬉しかった。というのは他でもない、2013年の5月末に私は岡崎と同作をめぐって公開対談を行ったのだが、その時点では刊行のめどが立っていなかったからである。それ以前に面識はあったが、ちゃんと話したのはこのときが初めてだった。シャイなようで実は頑固というか、考えに考え抜き、こだわりまくった結果、表面的にはのほほんとした風情に落ち着いてしまう感じが、彼の小説と人柄に共通していると思ったりもした。

 さて、この小説は、傾向としては『バンビーノ』に始まる岡崎ファンタジーの系譜に属する。というよりも、これはこれまで以上に本格的なファンタジー大作であると言っていい。彼の作品は、ごく短いものであっても、比較的リアリズム的な設定のものでも、どれも「世界の構造」を重要なテーマに置いている。岡崎にとって小説を書くことは、フィクションを立ち上げること、或るひとつの(或いは複数の)「世界」を、その成り立ちや仕組みも含めて一から造り出してゆくことに他ならない。この意味で本作は、彼がこれまでやってきた試みの集大成だと考えられる。

 全三章から成っており、それぞれ「ミラーワールド」「アタラクシア」「ニューワールド」と題されている。鏡の(中の?、向こうの?)世界。地中世界(だがそこはいわゆる「土の中」とは違う)。そして「地上」の新世界。三つの世界を経巡り冒険する主人公の名前はマルテ、もしくはマルタ。彼は彼女でもある(あった)し彼女は彼でもある(あった)。マルテ/タとその仲間たちは人間ではない。それどころか生き物でさえないのかもしれない。「本来なら“あぶく”のように生まれ、用がすめばまた“あぶく”のようにきえていくだけの一時的な存在のはずだった。にもかかわらず、きえなかった。きえそびれた。だが、自分がなぜきえなかったかではなく、なんのためにいるのか――それがわからない。もう用はすんだ。しなくてはならないことはなにもない。なのにいる。これが、ながいながい存在のはじまりだ」。そんな存在(?)のマルテ/タは時間をおりたたむことが出来る。ピーナツを半分に割って、でっぱりのある方を嚙み砕く。それから後でもう半分を嚙み砕くと、時間が元に戻ってくる。これはこの小説の重要な原理のひとつ。だがこれだけでなく、この作品には沢山の「原理」が仕込まれており、ちゃんと説明されるものもあれば、仄めかされるだけに留まるものもあり、結局どういうことなのかよくわからないままのものもある。だが、要するにそれが「世界」ということなのだから、読む者はただ「非日常の日常性」的な感覚に貫かれた変幻自在の語りに乗せられながら、納得や理解とは別の次元で、時空も因果律も完全に超越した壮大無比なスケールの、だが同時にどこか明らかにつつましくもある「ファンタジー」に付きあってみるしかない。頭がグルグルになりながらも最後まで読み終えた時、ひとつの(或いは複数の)円環が閉じられ、この「世界」は完結する。

 そう、この小説の最大の美徳は、無数の魅力的な開口部をそのままにしながらも、だがちゃんと終わっている、綺麗に終わってしまっている、ということではないだろうか。私はこれが岡崎祥久という小説家の、世界と呼ばれる何かへの、小説と呼ばれる何かへの、紛れもない倫理であると思う。そもそもファンタジーという物語形式は、異世界の構築を是とする。だが、ここに覗く殆ど奇妙とさえ言っていいほどの潔さ(のようなもの)は、世界への安易な没入や、キャラクターへの共感を許さない。本作に限らないことだが、岡崎祥久の小説は、どれも本質的には一種の寓話である。だがそこに込められた寓意は、それ自体が謎のようなものとしてある。