ぴんぞろ

戌井昭人

1540円(税込)

賽の目は宇宙に繋がる

安藤礼二

十九世紀末を生きたフランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメが最後に残すことになった詩篇は「賽の一振りは決して偶然を廃棄しない」と題されていた。必然を目指して創り上げられる完璧な作品のなかに、賽の一振りによって偶然を導入すること。マラルメはさまざまな活字を用い、誌面全体を楽譜のように使いながら、夜の海に難破した老船長が、虚空に向けて賽を放つ情景を、重層的な意味を担った「象徴」としての詩語を交響させながら描き尽くす。やがて夜空にかかっていた暗雲は晴れ、星々が瞬き出す。マラルメはこう語っていたというーー「われわれの外にあって宇宙は偶然のかぎりない領域です。人間のいかなる行為も、偶然を否定しようとのぞんで、かえって偶然を立証してしまう。行為が実現されるというただそれだけの事実によって、行為は偶然からみずからの手段を借りているのです」(筑摩書房版『マラルメ全集Ⅰ』に付された清水徹氏による解題より引用)。

偶然のめぐり合わせによって最後の作品となった「賽の一振りは決して偶然を廃棄しない」の準備を進めていたマラルメの脳裏には、若い頃から取り憑いていて離れない、宇宙全体をそのなかに封じ込めた究極の「書物」というイメージが浮かんでいたはずである。マラルメにとって「書物」とは、一人の作者によって書かれ、一人の読者によって読まれるものではなかった。厳密なルールに従って、複数の人間によって「上演」されるものでなければならなかった。「書物」の上演にあたっては、作者がそのまま読者になり、読者がそのまま作者になる。究極の「書物」とは、偶然と必然の間に区別がつけられなくなるような「祝祭」、原初にして終極の演劇空間として実現されるものだった。祝祭、賽の一振り、その結果として混淆してしまう必然と偶然、すなわち生と死。戌井昭人が本書の表題作「ぴんぞろ」で主題とするのも、そのような演劇空間にして文学空間を創出することであったと思われる。

サイコロ賭博チンチロリンの現場にひょんなことから巻き込まれた「おれ」は、こう考えるーー「チンチロリンはリズムである。人間の輪がリズムを刻みながら、どんぶりの中にサイコロをふっていく。リズムに巻き込まれていく心地よさがある。全員がそのリズムにのっかると、どんぶりを囲んだ輪がメリメリ立ち上がり、金を賭けているのではなく、存在を賭けているような気になり、おれ達はどんぶりの中に吸いこまれていく」。存在そのものを賭けた真剣な遊戯。それは、複数の他者が「賽の一振り」に集中することによって奏ではじめられる宇宙のリズムが可能にする。戌井の演劇=文学の表現原論でもあるだろう。賽の目の偶然が集団的な行為を促し、集団的な行為によって新しい世界の相貌が「どんぶり」という舞台に刻みつけられる。だから、その神聖な舞台で、人生に必然を呼び込むために為される真の偶然を妨害するイカサマは、「死」によって償われなければならない。

「おれ」を賭場に誘い、イカサマの腕を磨いて勝負所でピンゾロ、サイコロの「一」の目を三つ揃えようとした売れない舞台芸人、座間カズマはその最中に発作を起こし、あっけなく命を落とす。その唐突な「死」を見た賭場の胴元は、「おれ」にこう語りかけるーー「あのな、サイコロの目ってのは、すべて意味があるんだ。わかるよな?」、さらには、「人生なんかよりも遥かに意味があるんだ。人生なんて意味はねえけどよ、賽の目は宇宙に繋がってるからよ」と。この一節に過不足なく表明された思想を、一つの作品として結晶化するために、戌井は細心の注意を払って虚構の表現空間を造形してゆく。主人公の「おれ」は脚本、つまり演劇の設計図を書き、宇宙の雛形を創る者である。その「おれ」が、通常では相容れることない二つの世界、舞台と現実、偽物と本物、必然と偶然、生と死を、一つに繋いでゆく。二つの世界の対立と融合は、物語の冒頭から徹底されている。

「おれ」がまず足を踏み入れる浅草の街角では「仏壇屋と焼きそば屋」、死を商う店と生(=食)を商う店が隣り合っている。「おれ」は、現実の都市である浅草で長谷川のおっさんと出会い、座間カズマに導かれ、押入の奥に広がる「子宮」(田中弥生氏の指摘による)のような賭場に入る。その賭場で、座間はイカサマを働き、一回だけピンゾロを出しーー正確には出しそこねーー「死」をむかえる。物語の後半、「おれ」は座間の代役として、「群馬県の山奥のひなびた温泉場」に赴く。「おれ」は終点でバスを降り、ガスが噴き出て危険なオニバ(鬼場)を横切って、二階に劇場をもった古い建物に到着する。「おれ」はそこでルリ婆さんと出会い、その孫娘リッちゃんに導かれ、「性」を出し物とする舞台の演出を手伝う。性と死が何重にも転換し合う。リッちゃんの母はオニバで自殺していた。虚構の温泉場は冥界でもあったのだ。現実の性の空間には「死」が、虚構の死の空間には「性」(=生)が浸透していく。

「おれ」の冥界下りは続く。ルリ婆さんがバスの転落事故で突如として命を落とす。前半の座間の死を反復するかのように、また、あたかもサイコロが「どんぶり」に落下するように、最後尾の座席から真っ逆さまに転落して。ルリ婆さんの死後、「おれ」とリッちゃんは、なにとはなしにチンチロリンをはじめ、リッちゃんは無造作に何度もピンゾロを出す。「おれ」とリッちゃんの関係が必然なものになろうとしたとき、劇場の屋根が崩れ落ちる。虚構の劇場は「外」にひらかれ、一面の雪に覆われ、ゼロであり無限でもある「白」一色となり、「おれ」とリッちゃんは現実の街に帰還する。賭場に掛けられた「おかめ」の面が善悪の境界を曖昧にしていたように、あらゆるものの境界が曖昧となる。併録作「ぐらぐら一二」で描かれたように、生命と物質、人間と「もの」の差異もなくなる。そして、偶然が必然となった舞台の幕が下ろされ、演劇の発生にして文学の発生に迫ったきわめて意識的な一冊の書物が、ここに完成する。