村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011

加藤典洋

3960円(税込)

地質学のようにみごとな短編小説の編年記

橋爪大三郎

精確な手並みで一編の短編小説を、プロットや文体や無意識な細部に分解する。そして中心となるモチーフを取り出す。こんな丹念で、大胆な作業がぎっしり詰まった本書は、地質学者の仕事になんて似ているのだろう。標準化石(同時代の指標)を含む地層の一枚一枚から、それが堆積した当時の状況を復元し、編年し、意味ある年代記に組み上げる。加藤典洋氏が描き出すのは、必然の連鎖によってその都度こうあるしかない、村上春樹という作家と作品の変化と成長の履歴である。

デビューから現在まで、村上春樹はおよそ八十編の短編を書いた。長編が注目を集め、批評も多いのにひきかえ、短編は読み流されてきた。本書は初めての、村上のすべての短編についての本格的な評論である。今後、標準的な仕事として、長く参照されることになるに違いない。

大部な本書から、編年の折り目となる重要な指摘をいくつか紹介しよう。

一九七九年のデビュー当初の「初期短編三部作」は、《まだどこか未成熟で、生硬で、挑戦的で、試行錯誤的》とされがちだ。が、それは《「言葉」か「物語」かの二者択一》の格闘だった、と加藤氏は言う。《村上は、日本語で自分の小説世界を作り上げるのに、いま日本の社会に流通している文脈、考え方、感じ方(コラーゲン)は全部「使えない」と思った。…小説を構成する「物語」の要素(「コラーゲン」というタンパク質)を、いったん無色の「言葉」の単位(「ばらばらのアミノ酸」)まで…分解し…、そこから「新たなタンパク質(=小説)」を「再合成」し…なければならない》。この全否定の感覚は、とてもよくわかる。社会学を始めたころ、私も同じように苦しんだから。そこから再出発するのに私の場合、構造主義やヴィトゲンシュタインが導きとなったが、村上の場合は、同時代のアメリカ文学に助けられた、と加藤氏は言う。この時期、物語は断片的である。けれども「中国行きのスロウ・ボート」「貧乏な叔母さんの話」「ニューヨーク炭鉱の悲劇」の三部作に、中国や貧しい人びとや内ゲバの死者たちへの、控えめでも芯の固い社会的関心を読み取るべきだという。

このあと村上は『羊をめぐる冒険』を書き、《既存の日本的文脈・物語を解体し、そこから身を離すための方法としてのデタッチメントの書法》を脱していく。その代わりに《態度としてのデタッチメントを体現した主人公》が《はじめて作中に登場》する。これが《語り手でもある「僕」の造型》の秘密だと、加藤氏は解きあかす。誰もが知る、村上ワールドの誕生だ。これに並行して、初期に続く、前期の短編群(「午後の最後の芝生」から「雨の日の女」までの佳作二十九編)が生まれる。

前期の「僕」はマクシム、すなわち《明瞭な態度決定の末に確立された…「いい加減な生き方」》に従っていた。しかしやがて、それが、ただのいい加減な生き方と違わなくなっているのではと、愕然とする。だから前期後半の短編「ファミリー・アフェア」は、異質な他者の侵入による《マクシムの自壊をこそ描いている》と、加藤氏は指摘する。

そして中期。『ノルウェイの森』が百万部を越えるベストセラーとなり、村上春樹は《心地よい匿名性》を失って、底の底まで落ち込み、何も書けなくなった。その回復の途上で書かれた「眠り」は、不眠で意識と肉体がずれてしまう三十歳の主婦の話。《はじめての、完全な形の「女性性の語り」の作品》だ。中期の短編十二作中じつに《七作までが、女性を主人公ないし主要な登場人物とする、またそのうちのいくつかでは女性が語り手でもある作品》なのである。いい加減な「僕」よりも女性に、《人間生存のきつさ…個人的な孤立の様相》を託しやすい。《ジェンダー性の孤立の外貌を…隠れ蓑として》きつさを置き換え、換喩化していると、加藤氏は分析する。

その後、一九九五年の阪神・淡路大震災とオウム真理教事件は、村上春樹に新たな深い影響を与えた。後期の「かえるくん、東京を救う」にそれが顕著だ。かえるくんはある日、まるでさえない中年サラリーマン片桐の部屋に現れる。みみずくんと闘い、東京を壊滅から救うには、片桐の「勇気と正義」が必要だという。片桐はうなずく。だが最後にかえるくんは、片桐の夢のなかで変貌し、無数のみみず(非かえるくん)になってしまう。なぜか。戦後に移入された民主主義思想に対し、保留と疑いをもって抵抗した《戦後思想は、移入された「正しさ」…は本当に我々にとって「正しい」のか》と問い、既成の「正しさ」を放擲した。ゆえに《超越的な「正しさ」の基軸などな》くなるが、それでも《なお、「正しさ」とは何かを確定するという課題》をあきらめないからだ。

この課題は、世界へのより深いコミットメントを要求する。加藤氏は、村上春樹の最近の作品が三人称を用いるようになったのは、それに応ずる変化だと示唆する。

短編に限らない指摘も鋭い。村上の作品世界を象徴するのが、井戸である。井戸は、異界に、意識の隠れた深部に通じる。井戸は逆さになればエレベータとなり、また螺旋階段となる。そうやって物語を揺り動かし、時代の隠れた地下水脈へ読者を誘うのだ、と。

本書は、留学生がおよそ半数のクラスで、英語で行なわれた講義を日本語で書き直したもの。村上作品の英語訳や、学生の英文のレポートがヒントになった発見も多いという。でも本書は、それ以上に、村上春樹の短編小説全体への、初めてのまとまった批評として意義がある。村上春樹の作品世界全体を読み解く、強力な補助線を提供してもいる。