不可能

松浦寿輝

1980円(税込)

三島の仕掛けたトリック

三輪太郎

なぜ、三島由紀夫はあんな死に方をしたのか……という謎にとりつかれて、ずいぶん年月が経った。ああでもないこうでもないと理屈をこねまわしてはみたけれど、どれも部分的にしか整合せず、今もって心がすっきりしない。

死を「謎」と思わせることそれ自体が、三島の仕掛けたトリックであるということに、なぜ、君は気づかない? 柄谷行人氏にそうたしなめられたことがあった。

なるほど、と再考して、三島は死にたくて死んだ、ただそれだけのことだ、と結論づけてはみたものの、では、なぜ、死にたかったのか、と問い返すと、ふりだしにもどらざるをえなかった。

仕方ない。トリックと知りながらトリックにはまりつづけるのが自分の分相応だ、とあきらめていたところ、本書に出会って度肝を抜かれた。

松浦寿輝はトリックにはトリックで、狡智にはさらなる狡智で抗しつつ、この「謎」をエレガントに解除しようとたくらむ。

主人公は三島由紀夫である。

ただし、三島の名は剥奪され、作中では一貫して本名・平岡の名で呼ばれる。

著者は、三島がもっとも嫌悪するにちがいないことを、サディスティックなまでに次々と平岡に強要する。

第一に、一九七〇年十一月の決起・自決を不首尾に終わらせる。介錯の刀は振りおろされるが、首は落ちない。平岡は生き恥を晒して法廷に立ち、金閣寺を焼いた青年僧のように獄中へ放り込まれる。

第二に、獄中で死ぬことが許されない。自決未遂から二十七年後、彼は仮釈放されて娑婆へもどり、『天人五衰』の本多繁邦のように八十代まで延命させられる。

第三に、八十代の彼はあろうことか、太宰治の『人間失格』の主人公に比せられる。「表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無い」。非凡さのメッキはとうの昔に剥げ落ちた。トレードマークの哄笑も消え果てた。

さて、平岡は東京西郊の住宅街に、墓か廟のようなコンクリ二階家を建ててひっそり暮らしている。

書斎では小説は書かず、鏡に映る自分を観客に見立てて手品の練習にいそしむ。地下室はバーに改造し、ジョージ・シーガルばりの人体石膏像をならべ、高性能スピーカーで街のざわめきを多重再生して、悦に入る。

信じがたいことに、彼は現実との折り合いをきれいにつけている。人生最大の屈辱、かの自決失敗についても、「抜き身の刀なんぞを振り回したりするのが愚行以外の何ものでもないことはあまりに明らかだった」と考えるに至る。

死についても、「それはかつてあんなに怖れたような何もかも呑み尽くす途轍もない怪物というわけではなく、たった一杯の水割りがもたらす緩慢な酩酊でもって飼い馴らせる程度のちゃちなお化けにすぎない」と達観するのである。

『豊饒の海』についても、その自己評価は「嘘の皮だな」の一言で尽くされる。「記憶のない場所など実はこの世のどこにもかしこにもごく普通にある。それは世界のいたるところに散らばっていて人は人生の様々な年齢でそれに遭遇し、その恩寵によって世界に向かって自分を開くことが不意に可能になる、ただそれだけのことだ」。

彼はスコットランドを旅したり、伊豆に「塔の家」を建てたり、無意味・無目的な日常を退屈せずに生きている。退屈するためのエネルギーすら枯れ果てて。

やがて、著者はそんな平岡にひとつの啓示をもたらす。彼は全身で感受する。「足元に地面が広がっているように、その地面に根を下ろした太い孟宗竹の林が彼を囲んでそそり立っているように、ちょうどそのように自然に、彼もまたそこにいた。(中略)彼自身が世界の一部として在るのだった。彼が世界なのだった」

この啓示は重い。若い頃から彼を苦しめてきた「世界との乖離感覚」を、それは帳消しにする。四十五歳の彼が命と引き換えにしても手に入れようと望んだであろうものを、それは授ける。

平岡は啓示によって魂の自由を得た。もはや、この世に執着するものは何もない。執着しないということは、無為にまどろむことではなく、あらゆる行為、あらゆる可能性に身がひらかれることだ。

そこで彼は企てた。しくじった自決をやりなおそう。ただし、前回の単純な反復再現ではなく、現在の境地にふさわしい、新しいやり方で。

では、いったい、どのように?

文字どおり、死んで、生きる。観念的にでなく現実的に、死と生を両立させる。この不可能事を可能にするために、著者はミステリー顔負けの巧妙な仕掛けを組み上げる。ここが本書の読みどころのひとつである。

三島が生きていたら……という妄想は、多くの三島読者が一度はかかるハシカだ。妄想の背後には、手のとどかないところへ飛翔したものを奪回したいという切ない願いがある。幾何学的に整序された人生と、凡庸で無目的な人生との、ひそかな価値転倒を図りたいというジェラシーも動く。

なぜ、三島はあんな死に方をしたのかという謎に対して、著者は、未発に終わった生死の可能性を全面展開することで応ずる。トリックに足をすくわれずに三島を批評するためには、小説という形式が求められた。

ただ、生きた平岡と、死んだ三島、いずれをあなたは選ぶかと問われたら、私は迷わず、死んだ三島を選ぶ。たとえ、トリックにはまりつづける口惜しさを甘受せざるをえなくても。