会話のつづき ロックンローラーへの弔辞

川崎徹

1760円(税込)

幽霊たちの出番

三浦雅士

現代小説には二種類ある。書いていることを強く意識している小説と、書かれていること――多くは物語――に集中している小説の二種である。むろん、割合の問題であって、人は、書くことを意識することなしに書くことはできない。そのことを忘れている、あるいは忘れさせる小説と、つねに意識させる小説の違いと言ってもいい。

川崎徹はこの小説を、映画やテレビで人の会話を撮影する場合の撮り方の話から始めている。編集の仕方である。当り前のことだが、映画やテレビのごくありふれた会話でさえも、作られているのである。たとえばテレビ・ニュースで「群像」編集部の編集者の談話を収録するとする。必ず、数秒ほど、執務中の姿が映される。この場合、一般の人――それは誰か?――が雑誌の編集部とはこんなものだろうと考えているだろう情景が要求される。現実にどうであるかは関係ない。会話もまた同じように作られているのだ。

川崎徹は同じ問題が小説そのものに潜んでいると思っている。というよりも、ほんとうはそのことを考えたいために、テレビ・コマーシャルの世界で一時期を画した男がついに小説を書きはじめることになってしまったのだ。川崎は、テレビ・コマーシャルの登場人物にカメラを意識させた最初の人間である。むろん、ニュースもコマーシャルも視聴者に面と向かって話しかける場面のほうが多い。だが、そこではカメラもカメラマンも存在しないかのように装われているのだ。それが装われているにすぎないことを最初に暴露した人間が、川崎徹である。

無意識に暴露した人間がいないわけではない。だが、川崎徹は意識的に暴露した。そこに何か決定的に重大なものが隠されていると感じたからである。そんなことを感じ考えていてはテレビ・コマーシャルの世界ではやっていけない。小説に転じた理由だが、ちょうどその頃、幸か不幸か、パソコンとインターネットが普及し、新聞もテレビも驚くほどの勢いで凋落した。その勢いで、川崎が暴露したことは、論議されることもなく、いまや常識になってしまった。テレビが表現の領域として縮小されてしまったために、事の重大さに誰も気づいていないのである。

川崎徹は、書いていることを徹底的に意識している。むしろ意識するためにだけ書いているのである。そんなことはヌーヴォー・ロマンがとっくの昔にやったことだなどと言ってはいけない。誰も川崎のようには徹底的にやっていない。川崎は小説の素材として自身の記憶を用いていると繰り返し断わっているが、そのとき偽の記憶が紛れ込む、あるいは紛れ込ませてしまうことがあるとも断わっている。断わっているそのことが小説になっているようなものだが、しかしここで行なわれていることは、人間の記憶はすべて初めから偽の記憶なのではないか、ということの検証なのだ。それが小説冒頭に会話の場面の撮影の仕方、編集の仕方を書いた理由である。

言語の次元においては記憶の真贋は意味をなさない。歴史が永遠に書き直されてゆく理由だ。真贋とは何か、意味とは何か。川崎徹はクリーニング屋に出た職人の幽霊について語り、公園に出た旧陸軍兵の幽霊について語り、母の霊が蜘蛛に宿る可能性について語ってゆく。母の命日に決まって蜘蛛が現われるからと言って、母の霊が蜘蛛に乗り移ったなどと信じているわけではないが、その日、蜘蛛が出ないとつい捜してしまうというのは、つまり、人間は半信半疑の世界に生きているということだ。真贋も意味も、この半信半疑の世界に虹のような濃淡を描いて広がる帯のようなものだ。川崎はそう仄めかしている。むろん、半信半疑の世界とは言語の世界のことである。死も幽霊も半信半疑の対象、つまり言語現象なのだ。

川崎徹は思想を語っているわけではない。体験を語っているのだ。体験の記憶を、その記憶を検証した体験を、さらにまたその検証の体験の記憶を、語っているのだ。真贋も意味もその折り重なりのなかに隠されている。そして、隠されている真贋、潜んでいる意味を探るには、映画でもテレビでもない、小説という方法がいちばん手っ取り早いと語っている。そしてそれを実行している。ビデオや写真という記憶の代名詞のような装置さえも、ここでは、あからさまにではないがしかし厳密に、検証されている。

探索には地図が用意されている。というより、この小説そのものが地図――浮浪者=生を放棄したものが徘徊する地図――なのだ。北と南すなわち方位をたちどころに知る方法は亡父が教えてくれたと川崎徹は書いている。この地図の北は、原節子であり田中絹代であり、そして――小説では名が伏されているが――忌野清志郎である。原と田中は、亡父とその世代にとって光り輝く現在、永遠の現在の象徴としてあった。それは、川崎とその世代にとって忌野清志郎すなわちロックンローラー・キヨシローがそうであったのと同じだ。他方、この地図の南は――これも名を伏されているが――久世光彦である。久世は、その光り輝く現在を、疑いためらうことなく作り上げるものの象徴としてある。久世は生者を、その光り輝きを信じている。聞き手の表情を信じている。川崎が信じていないのとは対照的だ。川崎は信じたいのだが、信じられないのだ。キヨシローと久世が両極をなす軸の手前で呆然としている。川崎にとっては呆然とすることが小説なのだ。

川崎徹は、知る人ぞ知る舞踊評論家である。小説に手を出さざるをえなくなったのと同じ理由で、舞踊公演に通わざるをえなくなったのだ。川崎にとって小説は死の、舞踊は生の象徴である。小説は無限に過去に延びてゆく死者の国、舞踊は永遠の現在として光り輝く生者の国。キヨシローが舞踊の極北として存在するのは指摘するまでもない。問題は、そのキヨシローが小説という死の世界のただなかに躍り出てきたことだ。

川崎徹はいま生死の反転する地点に佇んでいる。『会話のつづき』はそう告げていると言っていい。佳境に入ってきたのだ。