赤の他人の瓜二つ

磯崎憲一郎

1540円(税込)

くにゃりと曲がって溶ける

中島京子

タイトルには日本語独特の慣用表現が二つ並んでいる。「赤の他人」の「赤」には「まるっきり」という意味が漢字本来にあり、中国語にも「赤裸々」という言葉はあるけれども、「赤的別人」と中国語で言っても、中国人は首を傾げるだろう。「瓜二つ」は、瓜の断面が左右ぴったり同じことから生まれた日本の諺で、英語には「同じさやの豆=two peas in a pod」という表現があるが、そもそも一個を割るという発想と、似たものが二個あるという考え方は違う。瓜を二つ並べてもぜんぜん違う形をしていたりするから、「瓜二つ」も説明を聞かなければ「そっくり」という意味には取れない。二つとも、赤ってなんだよ、瓜ってなんだよと、つっこみを入れたくなる慣用句だ。

そして小説は、どこか人を煙に巻くような「赤の他人」と「瓜二つ」のイメージに導かれて、歴史を遡り、個人の記憶に入り込みして、紡がれていくのである。

はじめになにがしか語り始めたはずの「私」の話は、すぐに「私にそっくり」の別の男の話にスライドし、工場労働者の男とその家族が語られ、語り手は家族の長男である少年へと移り、少年は妹から父の勤め先はチョコレート工場だと聞かされる。少年は愕然とする。それでは父から自慢げに見せられた、工場で作っているという銀色に光るステンレスの鋼板はなんだったのか。「それはどこか別の知らない場所に住んでいる、血も繋がっていない赤の他人の話ではないの」と妹に言われた瞬間に、鋼板は同じ銀色でも包み紙をめくれば赤茶色のチョコレートに替わってしまう。曲がらないはずの鋼が、くにゃりと曲がって舌の上で溶け出すように、小説はあらゆる場所で、融通無碍に曲がって溶ける。最初の章の終わりで出くわすこのエピソードに、わくわく騙されていく感覚を持った。

そうしていきなり物語は、うらぶれた日本のチョコレート工場から、チョコレートの歴史に飛んでしまう。マヤ文明から説き起こし、コロンブスによって西欧社会にもたらされるカカオの話へ。「インディオたちがカカオをすりつぶして作るどろどろとした怪しげな飲み物」、「生き血」のような赤色と描写されるチョコレートは、コルドバ時代のコロンブスとベアトリスの恋、アイルランドの海岸に打ち上げられる若い夫婦の死体、メディチ家の侍医と貴婦人の淡いのか濃いのかわからない関係などに、陰に陽に作用しながら、強壮剤とも催淫剤とも、不老長寿薬ともつかぬ役割を持たされて、世界史の隙間を駆け巡る。そうしてあちこちに、見分けのつかなくなる人々の話がちりばめられる。

そんな複雑さを持ちながらも、小説はするすると読み心地が良く、巻擱く能わず読まされてしまうのだけれど、なんと、いったん茫漠と広がったように見えた小説は、またまたいきなりくにゃりと曲がって、日本のチョコレート工場に戻ってくるのである。ここで働く男が、例の兄妹の兄であるかどうかは、「もはやさしたる問題ではないのだが」、少なくともあの男とそっくりの男の物語に、読者は引き戻される。

そして意外にも、後半部はすべてこの男と家族の物語になる。

父と同じようにチョコレート工場で働き始めた地味な男が、診療所で赤いチェックのブラウスを着た看護婦と出会い、いらいらさせられるほど引っ込み思案な恋慕の末に、彼女から赤いバレンタインチョコレートの包みを渡される。ところが男が告白したときにはもう看護婦は他の男性との結婚を決めていて……。そんなちまちました物語が、どことなく切なくて可笑しく、独特の味わいがある。そして、何も劇的なことなど起こしそうにない男であったはずが、一世一代、披露宴の日に花嫁を略奪するのである。ちょっと不気味なパワーを持つ妹はといえば、小説家になって、大学時代の恩師と不倫をする。孤独な妹が人生の支えにしているのは、たった一度の京都旅行で奮発して食べたビーフシチューだ。「肉料理というよりは焼き菓子とか熟れた果物を思わせるほどのコクと甘み」を持つシチューの隠し味に、コックと作者はもちろんチョコレートを使っているに違いない。

小説は、チョコレート工場の社宅に住み続ける両親、看護婦と結婚して自分も男女二人の子供を持った工場労働者、小説家になって独りで暮らしている妹の物語を丁寧に描き出しつつ円環を閉じるように見えるのだが、さてでは、「赤の他人の瓜二つ」とは、いったいなんなのだろう。

小説の中に何度も出てくるのは、死についての、こんな考察だ。
「ここで僕が溺れて死んだとしたって、それは多くの死のうちの、たった一つの死に過ぎないんだもんな」(少年)「俺のこの肉体が人喰いザメに食い千切られて、骨や肉片が海の底へ沈んで、砂や貝殻にまみれて死ぬのだとしても、それはいままで繰り返されてきた、これからも繰り返される幾千万という死のうちの、たった一つの死に過ぎない」(コロンブス)「このまま自分が死んだとしても、それはいままで幾千万と繰り返されてきた死―人間だけではない、動物や昆虫、植物たちの多くの死、それらのうちのひとつに過ぎないという考えに傾いていた」(メディチ家の侍医)

つまりは生も、あまりにも多くの、数えきれない生のうちのたった一つに過ぎない。そしてそれらは、差異よりはずっと多くの類似を持っている。私たちが自分ではない誰かの物語をいとおしく思うのは、それが私たちによく似た誰かの物語だからなのだ。

ところで社宅に住む両親は、小説のおしまいに来て、チョコレートの不老長寿効果か、ぎょっとするほどの記憶力と若さを保ち続けるのだけれど、時空を自在に跳梁する小説は、ここへきて、彼岸と此岸の境をも、とろとろにとろけさせているかのようである。