神様 2011

川上弘美

定価(税込):840円

二つの風景を抱えて生きる

古川日出男

 熊の手は“足”だ。魚を獲るその右掌が、“足”だ。熊自身がそのように語っている。つい足が出てしまった、と。ちなみに『神様2011』(ここには「神様」と「神様 2011」の二つの作品が収録されている)では著者の川上さんはこの愛おしい悲しい巨きな熊を、くま、と平仮名で表記されているけれども、僕は意識的に熊と書き記す。どうしてか。その平仮名の、くま、はすでに愛情を孕んだ呼びかけであって一読者が触れていいものかどうか僕には判断がつかないからだ。

 いま僕は「触れて」いいものか、と書いた。無意識に。すなわち川上さんとこの川上さんの作品の『神様』には触感の対象となるものがあるし、溢れているのだし、もしかしたら全体がその対象なのかもしれないと僕は受け止めているという証しだろう。なるほど直観か。僕が単行本の『神様 2011』で改めて驚かされたのは二つの些細なことで、それは「熊の手は、そうだ、足なのだ」と読むたびにハッとさせられる点だし、いま一点は干し魚の悲しみだ。干し魚は、(ほとんど圧倒的に)悲しい。

 改めて、と書いた。それは「神様」と「神様 2011」の二短編をひと組として読む、という読書体験をすでに僕はしているからで、すなわちこの「群像」誌の今年六月号がまず存在した。そこでは単行本とは逆の順序で、「神様 2011」がまず載せられていてそれから「神様」が収録されていた。その時は全部が直接的だった。直接的、とのフレーズで僕が言い表わそうとしているのは今年三月の震災がまず、じかに、そこに響いていたということだ。しかも雑誌発売は五月上旬だった、その“近さ”の内側で僕はこれを読んだ。二つの「神様」と誠実なノート=「あとがき」。すると、それはまず意見やら態度表明やらに近接するものとして立ちあらわれて(あるいは「立ちあらわれるだろう」とわかって)、もちろんそうではない、そうではないからこの“差違”を僕は現実との距離から測ることしかできない。

 その印象が単行本では変わる。僕は、「群像」誌掲載の時点では、この二作品のペアは何かを立体視させるのだろうなと思っていた。そうではなかった。まず先行する短編「神様」の世界がある。一九九三年に書かれたもの。その作品の風景は、読み手である僕の心の中にとどまる。それから震災後の作品としての「神様 2011」がある。すると、こちらの作品の風景も、僕の脳裡にとどまる。強烈に、熊の体毛というものの感触もはっきり伴って。では二つの風景は、立体視像を作るのか。違う。それらは重ならない。ブレはブレのままで、過剰として残り、読者は(あるいは読者としての僕は)二つの作品を二つの風景として脳に抱えたまま、生きる。

 もっと言葉を換えよう。

 右半球に二つの右半球が、どうしてだか、内蔵されてしまったような感じ。

 風景がとどまっていて、幼い僕が見ていた風景と、その隣りにいた友人が見ていた風景が、どうしてだか僕の脳内に「揃って」入れられてしまったような、感じ。

 あるいはその友人は異性で、僕たちは手をつないでいたのかもしれない。六歳だか七歳だか、十一歳だったかした僕たちは。

 異性、といま書いた。そして書評を綴っている僕は思う、この二つの作品の、この語り手の「わたし」は誰だろう。川上弘美さんの作品だと知っているからついつい女性だと思い込んでしまうが、どうか。男性でもいい。年齢もわからない。そうした存在が語っている。なのに熊は熊で(雄だと明記されている)、熊の神様は、神様だ。その神様がどんな神様なのかを「わたし」は見通せない。わからないものとわかるもの。わからないものにわからないもの。この構造は二つの作品でも、ともに変わらない。

 なのに、オリジナル=一九九三年の「神様」では干し魚には優しさがある。「神様 2011」のエンディングの干し魚は、悲しい。

 脳の内側の、友人の風景が、泣いているのだ。

 見通す、ということをこれから書く。作中の「あのこと」とはあのことであって、作中の「ゼロ地点」には現実世界では“第一”との冠がついている、と考えることはできる。〇に対する一、これが現実だ。この書評を綴っているのは二〇一一年九月六日で、じきに震災から丸半年になる。改めて思い知らされたのだが耐えることができない「事実」があると人は忘れる。それから同じことに対して人は怒る。忘れるか、怒る。これは時間が過ぎてしまったからだ。じゃあ過ぎる前に何をしたらいいのか。何ができたのか。川上さんはだから「神様 2011」を書いた。過ぎてしまってから書くのではない、ただなかで書くこと。いわば沈み込むこと。

 現実にシズミコム。

 日本語のその動詞の感触では伝えきれない、その姿勢。しかし現実にシズミコムことでしかやれないことはあった。そもそも震災こそが、僕たちが認識していた「現実世界」に対して余分なことだった。フィクションだった。そこにシズミコム。すると何が見えたのか。この夏休み、僕は郷里である福島県郡山市に戻り、どうしてだか「神様 2011」内の情景と同じ手触りの風景を見た。そこはゼロの地点からはキロ・メートルにして六十は離れているのだけれども、しかし(所謂)ホットエリアで、子供たちの姿が消えていた。あらゆる緑、鳥獣、魚類が、しかし美しかった。

 見通されるものだったのだ。現実にシズミコム目に、耳に、言葉を綴る著者の手に、見通されるもの。

 それに触れる。

 それを触れる、おずおずと、すると見通されない神様は、ただ「生きること」として立ちあらわれる。祝福せよ、と僕は言う。神に?