塔の中の女

間宮緑

定価(税込):1,785円

魅惑し翻弄する《偽物語》

佐々木敦

 手強い小説である。まともに相手にしようとしたら、こんな枚数では到底足りない。間宮緑がこの初めての長編小説に仕込んだ秘技と秘密の数々は、幾重もの層と渦を成していて、読む者を、読み解こうとする者を、果てしもなく魅惑し翻弄する。だがそれは、通常言われるような意味とは一寸違う。

 まず第一に、これはいったい如何なる物語なのか? 主人公はオレステスと呼ばれるし、エレクトラやピュラデスやヘルミオネやイピゲネイアが出てくるのだから、古代ギリシャの神話と悲劇を下敷きにしていることは誰にでもわかる。しかしこのあからさまな仄めかしには同時にあからさまな曖昧さが込められている。登場人物同士の関係や、それぞれが抱え持つ挿話は、意図的に複数のソースが縒り合わされたり、設定を露骨に変更されたりしており、むしろ原典らしきものを辿ろうとすればするほど、そこには胡乱と混乱が待ち受けている。そもそもこの小説のどこにも、舞台がギリシャであるということを明示した記述はない。各章題に附されているのはエスペラント語である。それにこれが「むかし、むかし」の話であるという保証もまったくない。注意深く読むならば、いや、そうせずともこれまたあからさまに、あちこちに如何にも今風のアイテムが振り撒かれているからだ。つまるところ読者は、古代ギリシャを参照することで、この小説にかんする何らかの納得を得ることを、誘われながらも封じられている。だからまずこれが、これこそがおそらくは最初の罠なのだということがわからなければ、おそらく一歩も先には進まない。

 むろん罠はひとつきりではない。第22回早稲田文学新人賞(周知の通り、このときのただ一人の選考委員は中原昌也だった)を受賞したデビュー作「牢獄詩人」以後、これまで発表されてきた間宮緑の小説はいずれも、反=時代的なバロッキズムに彩られたグロテスク・ファンタジーの様相を持っている。それは機械仕掛け、ゼンマイ仕掛けのバロッキズムである。彼の作品には、頗る不気味であり、それゆえに些か珍妙でもあり、それゆえに一種の不可思議なペーソスをも湛えた、機械仕掛けの存在、どうやって動いているのかもわからないガラクタ機械としての生きた存在が、しばしば登場する。本作の冒頭から描写される〈公爵〉は、その最たるものだ。

《公爵は全身これガラクタで出来ていて、頭、胸、腹の区別がない。堆積した洗濯物と、ぼろ布(きれ)と、黄色く日焼けした紙の束が綯(な)い交ぜになっていて、動くたびにそれらががさがさと摩擦する》

《ひょろ長い腕と、丈の低い、着脹れした胴体ばかりが目につくが、幾つものひ弱そうな脚のあいだに二つか三つの車輪があって、ガラクタの体重に軋みながら、しかし思いのほか軽快な速度で舗道を走り抜けてゆく。一見堂々とした風格をそなえているが、実のところいつもどこかしら故障しているらしく、何をするにもぎこちない様子で、そのくせやたらと尊大なのだ》

 この不気味で滑稽なガラクタ=〈公爵〉は、にもかかわらず絶対権力者として城に鎮座し、臣民から畏れ崇められている。誰の目にも〈公爵〉がガラクタであることは歴然としているのに、むしろそれゆえにこそ、ひとびとは彼に従う。〈僕〉ことオレステスは、数奇な運命を辿った末に、〈姉〉ことエレクトラの命を承けて、〈公爵〉の城に潜入することになる。

 では詰まるところ、ガラクタがガラクタのままで、どういうわけか然程の問題もなく駆動し、それどころかガラクタでありながら絶大なる力を帯び、世界(=小説)の中心に位置して、だからこそ最期には討たれるべき存在足ることで、一編の物語を成立させる、という〈公爵〉のナンセンス極まる存在様態を、そのままこの小説を統べる原理、この小説が体現する寓意、として解釈することで、何かが露わになったことになるのだろうか? 

 確かにそれはそうであるようにも思う。題名になっている「塔の中の女」の正体からして、この原理と寓意の決定的な傍証であるわけだが、むしろガラクタのナンセンスは、どこまでもこの小説の内へ内へと喰い破っているのであって、そうであれば、要するにこのような読み方もまた、役立たずの部品の寄せ集めの無意味な駆動の成せる業でしかないことになってしまう。だからたぶん、寓話としてこれを読もうとすることは、結局は別の罠に嵌るだけである。オレステスが探す《おはなし》、エレクトラの《計画》の真意、綴りの狂った本=物語の失われた最後の一ページ、〈公爵〉を組み立てる老婆たちがないないと騒ぎ立てる《あれ》等々、あからさまに隠されていることによって深読みを誘う隠喩と寓意の餌は、枚挙にいとまがない。しかし誤解を恐れずに言うなら、それらは全てが〈公爵〉と同じくガラクタなのである。

 だが同時に、それにしては、それだけにしては、あまりにも至るところが過剰であり、歪なのだ。〈紙魚〉と呼ばれる奇っ怪な生物や、本と文字をめぐる超常的出来事や、城の中に棲まうさまざまな者たちの描写等には、濃密な畸形的幻想性が溢れており、細部は異様に膨らみながら、物語を逸脱してゆく。バロック=ガラクタ=ナンセンスは、三つ巴になっている。

 オレステスは《偽詩人》と呼ばれ、《ほんとうの》詩人とは峻別されている。これに限らず、この小説には、ありとあらゆる《ほんとうの》ということに対する疑念と逡巡、渇望と絶望が、間違いなく重要なテーマのひとつとして、貫き流れている。そして他ならぬこの小説自体が、あからさまな《偽物語》として書かれ、これみよがしの《偽小説》として構想されているようである。だが《偽》とは単なるフェイクということではない。それは《ほんとうの》の対立物でも補完物でもない。ここには何かもっと得体の知れないものがある。読む者を、読み解こうとする者を、ずぶずぶと呑み込んで、肥え太らせた末に腑抜けにしてしまうような何かが。