人生オークション

原田ひ香

定価(税込):1,470円

脚本ではできないこと

中島たい子

 原田ひ香という作家に、日頃から私は強いシンパシーを感じている。他でもない、脚本を書いていたことがあるという経歴が自分と共通しているからだ。自分の作品との類似点を原田氏の小説に見つけては密かに喜び、読み終えると、「脚本書いてたって、小説も面白いじゃないか!」と、見えない誰かに向かって息まいている。というのも、小説を書き始めた当初、私の書くものは脚本ぽいと、何かというと指摘されて、脚本を書いてる=小説の書き方がなってない(ヘタクソだ)と言われてるような劣等感を、私自身がずっと引きずってきたからだ。けれど、原田氏の小説が「脚本ぽい」かといえば、そんなことはなくて、履歴を知らなければ、原田ひ香の小説が脚本ぽいなどと、読者は思いもしないだろう。でも、私は脚本を書いていたから、原田氏の小説の中に未だ隠されている、脚本的な匂いを嗅ぎ分けることができる。

 その脚本的な匂いとは、どういったものか? 私はよく、「脚本を書いていらしたから、小説も読んでいると映像がすぐに浮かんできますね」などと言われる。確かに、原田氏の「人生オークション」でも、積み上げたダンボール箱でいっぱいになっている狭いアパートの部屋の光景が、瞬時に映像となって頭に浮かんでくる。しかし、これに関して言えば、脚本家であることはあまり関係ないと私は思っている。映像が溢れている環境で育ってきた若手の作家がものを書けば、脚本家でなくても演出家でなくても、それは映像的になってしまうのではないだろうか。それよりも、場面の切り替え方などに、脚本家の特徴がこっそりと表れていることが、興味深い。私も同じことをするのだが、簡単に言うと読者に余韻を与えず、いきなり次の場面に切り替わっているのだ。

 脚本作法の基本に「シーンには遅く入って、早く出る」というのがある。映像だからこそ余分な説明はいらないし、余韻のために何も起きない映像を長々と流しておくことは実験映画でもなければしないので、テンポの良さや飽きさせないことを重視する映像作品の場合、早く切り上げるのが一般的だ。しかし、これを小説でやってしまうと、読者がおいてきぼりを喰うことになる。私は以前、読者にネット上で「落丁かと思った」と書かれたことがある。どんな言われようだと落ち込んだが、落丁ということは、そこにあるべきものがないと感じたということで、何かもっと書かなくてはいけないのだと知った。小心者だから以来、余韻を残すように努めて書いているのだが、原田氏の小説を読んで、また驚いた。そんなことは全く気にせず、その潔い場面の切り方は、私ですら心配になるぐらいだ。けれども不思議なことに、読者は迷うことなく物語についていくことができるし、落丁だとも感じない。なぜか? おそらく、余韻が別のところにちゃんと納まっているからだと思われる。感情移入ができる余韻の部分は、丁寧に文中にばらまかれている。それは会話の中にもある。登場人物は非常に自然な言葉で語り、書く必要があるのかと思わせるセリフや、語尾、間を置くことで、人物に入り込む時間が与えられて、読者はそこで感情移入したり解釈することができるから、すみやかなシーンの展開にもついていけるのだ。

 脚本を書いていたことと関係づけられる、原田氏の小説のもう一つの特徴に、犯罪や事件を組み込むことに慣れている、という点がある。「人生オークション」も傷害で警察に捕まった叔母さんの話である。物語としては、叔母と姪との新たな交流の形という穏やかな内容であるが、その事件性が緊張感を全編に与えていて読者を落ち着かせることはない。それは彼女の他の作品にも通じている部分だ。同時収録の「あめよび」でも、具体的な事件は起きないが、「諱(いみな)」というミステリアスな風習が出てきて、結婚したがらない彼氏、輝男の謎とともに物語に緊張感を与えている。しかし、事件も謎も、それ以上に事件性をおびることはなく、さらに血を見るような惨事に拡大することもないし、さらに悪い出来事を引き起こすこともない。このようなところは、全くもって「脚本ぽく」ない(またはテレビドラマっぽくない)。そして私は、再びシンパシーを感じてしまう。原田氏は、脚本ではできないことを、あえてやっているのだ。このように半端な事件を描くのは、ドラマなどでは難しい。事件だけれど事件じゃないとか、不穏だけれど事は起きないとかでは、ドラマとしてなかなか受け入れてもらえないから、原田氏は小説で表現することを選んだのだろうと、その気持ち痛いほどよくわかり、共感してしまう。

 主人公に関しても同じことが言える。瑞希も美子も、映像で表現するには難しいキャラクターだ。二人とも、普通に人生を生きていくことに疑問を感じているが、そこから大きく逸脱することはできないでいる。そして社会から逸脱して特異な人生を歩んでいる叔母や、変わり者の輝男に強く惹かれて、気づくと彼らと一緒にいる。もし映像化するならば、個性的なキャラクターである叔母や輝男の方が主役にまわり、瑞希や美子は、ふりまわされておろおろする脇役になってしまうだろう。原田氏は、そのようなサブになりかねない半端な女性を、あえて主役において、彼女たちの心情を繊細に描いている。普通に生きられないけれど、キョーレツな人間にもなれない。実は、そう思っている人間は多いのかもしれない。だから彼女の小説は共感を呼ぶのだろう。そして半端な彼女たちも、話の終盤では、彼女らができる範囲で一歩成長する。その爽やかな展開に読者はまた救われる。読んでいて非常に気持ちが良いので、面白いっ! と言っている自分がいる。脚本の匂いを残しつつ、それではできなかったことを、原田氏は大いに楽しんでやっている。落丁でけっこう。私も彼女のあとに続きたいと思う。