場所と産霊
近代日本思想史

安藤礼二

定価(税込):2,100円

「日本」をこえる思想の運動

苅部 直

この本に登場する主役級の一人、哲学者の西田幾多郎については、これまで英語やドイツ語など、外国語への著作の翻訳が少なからず刊行されている。た だ、そのうち西田の生前に上梓されたのは、「大東亜戦争」のさなかに出た、論文三篇のドイツ語訳が唯一だろう。ドイツ語教師として日本で活躍していた、ロ ベルト・シンチンゲルが西田の高弟二人とともにとりくんだ仕事である。西田本人が訳稿に手を入れたわけではないにせよ、それに近い性格をもった訳業とみな していいのではないか。

このドイツ語訳を、戦後にシンチンゲルが英語に訳し直したものが、かつて丸善から刊行されていた(Intelligibility and the Philosophy of Nothingness, 1958)。ドイツ語版が入手できなかったので、この英訳書に目を通したことがあるのだが、そのときは実に驚いた。

何しろ、難解をもって知られる西田の哲学論文が、英語になると実に明快に読めるのである。たとえば、「絶対矛盾的自己同一」。西田の常用語である が、「絶対矛盾」と「自己同一」とを別々のものとして理解するのでなく、ひとつながりの概念として把握しなくてはいけない、などと言われる、いわくつきの 難物である。禅語なみの扱いがぴったりくるような。

この言葉がシンチンゲル訳では“unity of opposites”。もちろん、その意味内容を十分にくみとるには、論文の全体を読む必要があるので、これを眺めただけで原著者と訳者がもりこんだ含意 にたどりつけるわけではない。しかし、この英語訳で読むと、漢字を多用して意味をつめこんだ西田の日本語文体とは異なって、議論の構造がすっきりと見えて くる。また、欧米の哲学からの流れをうけて、西田が思考した跡についても、より明確にたどれるように思えるのである。

西田幾多郎のほか、鈴木大拙、南方熊楠、折口信夫といった人物を、このたびの新著で安藤礼二はとりあげている。いずれもさまざまな方面に影響を及 ぼし、論じられることも多いが、それぞれに孤立した印象を受ける思想家たちである。発想の独自性のせいだけではなく、安藤が指摘するように、「学の体系 が、それを表現する主体の、きわめて主観的な体験に基づいた『実感』に色濃く染め上げられている」(195頁)という、各人に通じた思想の体質のようなも のが、自己完結の孤独さをかもしだしているのだろう。

しかしこの本では、「コレスポンダンスとアナロジーの理論―生きた象徴(シンボル)によって不可視の世界と可視の世界をつなぎ、世界に統一と調和 をもたらすこと」(183頁)という同一の思考を、彼らが共有していたことを明らかにし、その間にある活発な照応関係を描きだす。しかもその思想どうしを 結ぶ線は、太平洋をこえ、ウィリアム・ジェイムズとチャールズ・サンダース・パースの哲学に、そしてその源流となったエマヌエル・スウェーデンボルグと シャルル・フーリエの思想を介して、シャルル・ボードレールやホルヘ・ルイス・ボルヘスの文学にまでも連なっているのである。

副題で「近代日本」の思想史とうたいながら、その内容の半分ほどを海外の思想の分析が占めていることに、驚く読者もいるかもしれない。しかし、西 田や折口といった人々の発想を掘り下げていけば、その底に「近代日本」の哲学や民俗学や文藝が共有していた、一つの思考様式が見いだせる。その持ち主をつ なぐ線は、さらに遠く欧米へ伸び、地球の裏側にまでも及ぶ。これを指摘したうえで、安藤は世界大の思想地図のなかに「近代日本」もあったと説く。

こうした見取り図の明晰さと、日本列島の内にとどまらない、大陸をこえた思想の交通を実感させるところが、この本から西田幾多郎の英語訳を想像さ せたのである。つぎつぎに話題が変わる、めまぐるしい構成にとまどいながら、本の頁をめくっているうちに、「近代日本思想史」をめぐるできあいの先入見 が、突き崩されてゆくのを読者は体験するだろう。ちょうど、「可視の世界」から背後の「不可視の世界」へと人を導く、「コレスポンダンスとアナロジー」の 方法の好例に、この本もなっているのである。

そして最後に読者がたどりつくことになるのは、折口が説いた、人間の記憶の奥底に沈んでいる原郷にふれる土地としての岬、「光に満ちた海のなかに 自らの意識と身体がともに融解してしまうような特別な場所」(213頁)である。だが、この華やかな大団円で話を終わらせない構成が心にくい。そうした調 和感からはじきだされたような、十九世紀フランスの両性具有者、エルキュリーヌ・バルバンの人生と、それに関心をもった南方熊楠とミシェル・フーコーの二 人の姿を示して、本論を閉じている。ちょうど異質なものを休みなく産みだし続ける、熊楠が重んじた「森」のように。

もちろん、西田幾多郎の著作の英語訳が、原文の文体にある、うねるような質感をそぎ落としてしまうのと同じように、強引に思われる解釈も見られ る。たとえば、西田が国家に関して抱いた理想について、「独裁的な国家」(189頁)と断定するのはさすがに難しいだろう。折口が晩年に「一神教をもとに 神道を読み替えようとし」(200頁)た営みは、日本民族の心性に積み重なる「記憶」の重視と、どう両立しているのか。しかしこうした個別の詮索をこえ て、多くの思想を包みこむ広大な空間を、まるごと指し示す。この本の意義はそこにあるのだろう。その冒険性をむしろ買いたい。