帰り道が消えた

青山真治

1870円(税込)

逢魔が時の故郷

苅部 直

人生の逢魔が時。ここに収められた三つの短篇小説を読んで、ありふれた言いかたではあるが、そんな言葉が浮かんだ。第一作「天国を待ちながら」に脇役として出てくる女性、幹子が、第三作「帰り道が消えた」では主人公となり、第二作「見返りキメラ」の香苗(カナエ)、第一作の由実と、それぞれ主役級だった女性たちと三人で旅行するという、ゆるいつながりをもった短篇群である。

たとえば、「帰り道が消えた」には、主人公のいとこにあたる中年男性が語る、こんな言葉が見える。「俺たちみたいに帰るところがない人間はいつかふっと不安に襲われて自分でも思ってもいないようなかたちで自分自身をぶち壊しにするようなことをしでかすんじゃないかね」。夕暮れどきに妖魔にとりつかれるのと同じように、人生の盛りの時期をすぎたころ、心の底知れぬ深みから不気味な欲望がわきたち、常軌をはずれた行動へと人をひきずりこんでゆく。三篇はいずれも、そうした魔との遭遇を描いた作品と読むことができるだろう。「見返りキメラ」の場合は、主人公である二人の女性、ミチルとカナエがまだ二十八歳であり、中年の男女を扱ったほかの二篇と、ややおもむきが異なっている。話の結末も明るい。だが二人とも、少女であった時代に別れを告げたにもかかわらず、成熟した女としてのはっきりした自己像を築けずにいる。そこに目をつければ、やはり移行期のあいまいな状態に置かれていると解していいだろう。若い女性から一人前の女へ、あるいは壮年から老年へという、ゆるやかな変化の端境期に、魔が忍びこんでくる。

カナエは、親友のミチルから奪った恋人との関係に倦み、死んだ母親と自分とのあいだのつながりについても、心のなかでどう据わりをつけるか、揺れつづける。そんな中で、恋人がミチルに殺される場面を幻視し、また母親の交際相手だったかもしれない男に会おうと、深夜のバーへさまよいこんでしまう。

そのように不穏な気持ちがたちあがるのは、故郷へむかう新幹線の車中であり、また故郷の街の飲食街である。母親と自分との関係、恋人と自分との関係、そして自分自身とどう折りあいをつけるか。この三つの関係がすべて揺れ動いている状態の底に、故郷との関係の不安定さがある。

故郷に惹かれつつも反発する矛盾した衝動に動かされて、そこを訪れると、目にする風景は時をへて確実に変わっている。カナエとミチルの二人が、そうした揺れを抱えながら、故郷との間に調和を取り戻すところで、「見返りキメラ」は終わっている。旧作『ホテル・クロニクルズ』で題材に用いていた中上健次の小説における、「路地」の主題も、遠く響いているようである。

これと反対に、先に引用した語りにある「帰るところがない人間」の精神に起こる崩壊を描いたのが、冒頭の「天国を待ちながら」と見ることもできるだろう。主人公の男性大学講師は、四十歳になって精力をしだいに失ってゆくなかで、明確な目的意識によって律していた生活の枠を壊しはじめ、「奇妙な悦楽への欲望」にとりつかれてゆく。この男がいかなる場所で生をうけ、どんな幼年時代を送ったかに関する記述はなく、まるで空間に宙づりにされた独楽が、狂おしく回っているような風情である。

そして家庭の崩壊をへたのちに、「自分が視つめた相手に視返される必要」に気づくところで、小説は終わっている。どんな相手であれ、自分でない誰かを見つめ、反対に見つめてもらうこと。そうした視線の交差を重ねることで、自己を保ち、よこしまな衝動をやりすごすことができるのである。「天国を待ちながら」ではこの男と妻、「見返りキメラ」ではカナエとミチルという、二人の人間の視点をたがいにいれかえながら作品が綴られているのも、視線の交差がもたらす効果を、作品の構成を通じ読者に体験させようとする工夫ではないだろうか。

だが、最後に並ぶ表題作「帰り道が消えた」が描くのは、故郷との和解や、他者との視線の交差によって安定を取り戻すという回路が閉ざされた、人間の状況にほかならない。この作品だけは、ほかの二作と異なり、ひたすら主人公である幹子の視点のみによって語られる。また、幹子の故郷の「谷」の集落は、ダムが築かれたせいで、すでに湖の底に没してしまった。両親はすでにこの世におらず、親族はいとこの一家のみで、年上の男との不倫関係に溺れるようにして、孤独な身を支えている。

いくつもの失敗と偶然が重なって、その危うい均衡がたちまちに崩れ、作品の最後では、幻想とも現実ともつかない状態で、幹子は故郷の湖らしい場所にたたずんでいる。そこで、死者も含めたさまざまな知人たちの顔が湖面に浮かび、彼らの表情とむかいあうことで、深い歓喜に身体をふるわせるのが、最後の場面となる。

これを、日常の次元での視線の交差よりもずっと深い、存在の深奥での他者との出会いを通じ、救いに達したと読むか。それとも、視線の交差を求めながら得られず、ついに狂気と死の領域へふみこんだと解するか。そうした問いを封じこめるように、秋の山の木々と、それを映した湖水によって、真っ赤に染まった世界が迫ってくる。ここで逢魔が時は、永遠に続く聖なる時間の高みへとせりあがっている。その力に圧倒されながら、読者もまた巻を閉じるのである。