西方之魂ウエストサイドソウル

花村萬月

1870円(税込)

ブルースは取り憑く

湯浅学

音楽とは何だ? その答がこの本にきちんと書いてある。肉体的、精神的、様々な側面から音楽の構造が明らかにされている。

音楽をやることの切実さが若い肉体を通して描き出される。ほとんど未経験のギターを手にしたとたんに変わっていく青年の心と肉体の物語。それが体液の方向から伝えられる。爽快である。それは万人に共通しない喜びかもしれない。しかし。何故人間は太古の昔から音楽を奏で聴いてきたのか。気持がいいから。心が洗われるから。泣けるから。感動するから。憂さを晴らせるから。その理由は実はひとつではないか、と思えてならなくなる本である。

高校生だがほとんど不登校の主人公光一(ピカイチ。本名です)が、美貌の同級生日向に導かれるようにして、ブルースマンになってゆく。ブルースに取り憑かれてしまう。そういう話だ。ブルースの力が因果をもたらすが、それは自分自身の業と向き合うことを促す。光一はエレクトリック・ギターを手にし、それを弾き込み集中することで、おのれの何たるかを知る。

そこらのバンド・ストーリーとはまるで違う。ここには音楽のムードや気分をちゃらちゃら利用した文章など一行も一文字もない。ロックのような人もレゲエな空気も、ブルース風なアメリカ黒人も、ソウル・シスターな人も全然登場しない。

ギターのコード・フォーム、楽理の解説、楽曲の構造説明や聴き所のガイドは、きちんと記されている。

この小説は、音楽がそこはかとなく聴こえてくるとか、音楽が背景にいつも流れているとか、風俗として音楽が時代を説明しているとか、そういうものではまったくない。音楽と人、特にブルースと人そのものを掘り下げたものである。タイトルを見て、マジック・サムが67年にシカゴで録音したアルバムを即座に思い浮かべるが、サムのゴリゴリとしたブルースは入口で、その奥がやたらと広くて深いことを知らしめる。花村さんは『俺のロック・ステディ』で、「正直なところ、俺は蘊蓄を傾けるとしたらロックよりもブルースに詳しい物書きだ」と述べておられる。ならばブルースについて語ってほしいと思っていたらば、本書がガツンと来た。

人生いたるところにブルースあり。どこにでもあるから、ふいに取り憑くのだ。この物語の舞台は京都だ。だから“西方、ウエストサイド”か、と思っていたらば、沖縄に行く、八ヶ岳に行く。それもブルースの、音楽のなんたるかを身に沁み込ませるために。感じることのその先のために、脳も肉体も総動員されている。音楽好きとか、そういうのは当然で音楽マニアと書くとなにか鼻白むし、音楽愛にあふれた人というとどこか柔和で学校の先生じみてしまうので、あえていうなら音楽鬼であるにちがいない花村さんは、自らの聴取術をつまびらかにすることで、読む者にブルースの広範な力を、より具体的に知る道を提示している。本書はディスク・ガイドとしても、凄く使える。音楽評論家として自分の力のなさを自覚させられもする。たくさん聴いちゃいるだろうが、ただカビの温床増やしてるだけだろあんた、といわれていると思えてならず、くやしまぎれにギター・アンプ・ボリューム10で闇雲に弾きまくりました。

高校3年生でドラム叩いている女子日向が沖縄で車を運転しながら、車内で爆音で聴いているのがフランク・ザッパの『グランド・ワズー』、という場面は痛快だ。こういう娘が、いるにちがいないのが21世紀の日本だ、と思った。日向は頭が冴えている。「ザッパは自分がドラマーやったから、太鼓にはうるさいねん」という。もっといってくれ、と思う。マニアだからいうのではない。ザッパを小賢しく聴くな、と思うからいうのだ。

ブルースも同様だ。黒人でなければブルースの本当の悲しみはわからない、という輩は死んでもまだ黒人に生まれなかった自分を呪う。くだらんことだ。だったら日本人の自分がこんなに黒人のブルースに魅かれるのか、と何故本書のように考えないのか。ブルースの本場はアメリカだ、という輩もたくさんいる。そうではなく、“本場”はやっている本人の中にあるものだ。アメリカ人のように歌うことではなくおのれの中をあけすけに見せるような、内臓のような音楽をやるものにブルースは生まれる。

本書にこうある。
「ブルースとは、否応なしに刻み込まれる傷口で、たちの悪いことに、たいした痛みもなく、けれどじわじわ疼き続ける。

始末に負えないのは、その疼きが甘く誘惑に充ちていたりすることもあることだ」

マジック・サム、フェントン・ロビンスン、ビリー・ホリディ、美空ひばり、リヒテル、ドクター・ジョン、デューク・エリントン、ジョン・コルトレーン他、形式や様式ではなく、ブルースは得体が知れないからどこにでも湧き、降りそそぐ、わけのわからない無自覚な者にも取り憑いてしまうものだ。

親と子、血の中に流れて止まぬブルースに抗おうとすること自体もまたブルースだ。光一の天才性が無邪気に発揮され、それが人の心を打つのは、死の臭いがあるからだが、死の臭いは生の裏返しだということもブルースは伝えている。誰にも見えない触れられない。しかし確実に形がある。音楽はそういうものだ。臭いもないのに臭覚が反応してしまう。聴くだけで目の前に情景が立ち現われる。どこのどういうスイッチを入れるのか、音楽の野郎、ふてえやつだ。ぶちのめそうにもどこにいるのかはっきりしない。いったいこれは何なのだ。

という疑問の果てしなさ。だからこの小説は生まれたのだろう。具体的抽象。音楽はそもそも鵺(ぬえ)の親戚だ。快感のなんたるかが美しく綴られる。誰が名づけたのか音楽。音楽に身も心もたぶらかされた者たちの讃歌。振りかえればブルースが飯喰ってやがる。