烏有此譚

円城塔

定価(税込):1,575円

マニュアルつきの小説

阿部公彦

また、こんな、読むのにコツがいるような厄介な小説家が出てきてしまった。なにしろ自分で勝手にルールを作ってしまうのだ。本来、小説を読むという のは惰性というか、たいへん保守的な悦楽で、よけいな前置きや構えはいらない、とりあえず読めてしまうのが大事。ところが中には不思議と読めてはしまうも のの、こちらのすごく変なところをいじってくるような、すごくいやらしいというか、隠微というか、とにかく困った書き手がいる。ストーリーがよくわからな いわりに前へと読み進めてはいるし、笑うつもりじゃなかったのに笑ってしまっていたりするから、はて、自分はいったい何を読んでいたのか?とわからなくな る。何か手すりのようなものにつかまりたくなる。

ちょっと覚悟をした方がいい作品なのである。読むのにマニュアルが欲しくなる。しかも、あろうことか、この作品にははじめから作者自身によるほと んど芸術的なマニュアルが「注」として、あるいは「注の注」や「注の注の注」としてくっついている。その中では、嘘かホントか、「注」は本編を単行本化す るのに抱き合わせにする作品が書けなかったから水増しするために書いたのだ、ざまあみろ、みたいな記述がある。

はっきり言うと、この注は本編を読むのにはまるっきり参考にならない。だいたい脚注とは名ばかりで、注が注を呼び、またそれが注を呼ぶからどんど ん増殖して、注番号に該当する記述を見つけようと四苦八苦していると本編の内容を忘れてしまったりする(三五頁に出てくる言葉の脚注が五五頁にあったりす るのだ)。やっと見つけてもなんだか全然関係ない話で、しかも思わず釣り込まれてニヤついたりしてしまうから、本編に戻る気もしなくなる。古今東西の文学 作品やら、論理学、数学、自然科学の知識やら、どうでもいいトンチやら、人生訓やらに満たされたこの注をいったいどう処理したものか筆者にはよくわからな いのだが、いっそ抱き合わせにされた別個の作品として読んだ方がいいのではないかとも思う。

それで肝心の本編なのだが、さすが注がこれだけついているだけあって(注の実態はともかく)どこか古めかしい気配がある。「生活が簡潔だからと いって、周囲の風景までもが小綺麗だとは限らない」なんていう一節、思弁する文人といった風情で、まるで『草枕』だ。そういえば、注にも中国古典からの引 用は多数。

ちょっと古めかしく、渋い。でも、枯淡というのとは違う。ほんとうは透き通ったよく通る声が出せるのに、わざとくぐもった声でしかしゃべらないような語り手なのではないか、どうしてそんなことをするのか、というあたりに、おそらくこの作品の勘所がある。

渋い古めかしさは、語り手の箴言癖から来ている。箴言が箴言を呼ぶ。箴言を語り直すことで話もふくらむ。ストーリーがよくわからないわりに読めて しまうのは、我々がこの箴言の精神を追うからだ。その対句調のリズムに乗せられながら、もっと、もっと、と欲しくなる。箴言とは全体を語る言葉である。 我々は全体を見渡したいのだ。メタレベルに立ちたい。寸鉄人を殺す、というが、寸鉄はたしかにその小ささに比して巨大な殺傷力を持つ。寸鉄のようにして世 界を一息にやっつけてしまおう、語ってしまおうというのが箴言だ。

しかし、どうやらこの作品の語り手は、寸鉄で世界を征服したいという欲望について、淡泊でもある。なんちゃって、と思っている。「世界中に似たよ うな説話が広まる理由に深遠なものなどは存在しない。誰もが同じようなことを思いついてしまうからだと言ってしまってお仕舞いだ」。そう。まさにこれ、箴 言そのものだが、自分でその箴言を本気にしないところがいい。

この作品の主人公(がいるのかどうかよくわからないのだが)はまさにこのあたりのややこしい事情を一身に背負わされた声である。とりあえずは、箴 言の発信者にふさわしい清貧ぶり。貧乏で、根城は六畳。家具もほとんどない。ゴミだの、虫だのばかりが目につく。だが、その口からは、世界をすべて語りつ くさんかというさまざまな観念がふんだんに湧きだしてくる。その頭にとりついているのは「二十万人」という妙な数字。自分がたくさんであって、もっと少数 でもあって、ついには一人きりというイメージの連鎖を、ジェットコースターのように行き来する。その果てにあって、語り手が何度も立ち戻ってくるのは、自 分は穴だという想念である。自分がどてっとあるのではない。空洞だけがある。取り巻く世界こそが実在する、という感覚だ。まさに六畳に引きこもった聖なる 貧者の像である。

ストーリーがよくわからないのは、ひとつのはずなのに小さくなったり大きくなったりするこの思考法のためである。レベル間のジャンプが頻繁なの だ。ストーリーとは通常、一個一個独立した個物が連鎖することで出来上がるもの。桃が川を流れてきて、桃から桃太郎が生まれて、成長して、鬼ヶ島に行っ て……となる。それは展開であり、連続である。しかし、『烏有此譚』の世界では、あるのはひとつの全体だけ。桃太郎はどこにも行かない。一所にとどまり、 大きいものから小さいものが生まれて、でも、子供から親が生まれちゃったりもして、なんていうわけのわからない発想まである。論理的超越と生物学的繁殖と がだぶりながら、地と図がくるくる反転する。全体を見渡したかと思うと逆に、全体から遠く置き去りにされたりする。読んでいると『ユリシーズ』だの『不思 議の国のアリス』だのも思い浮かぶが、もっとふつうの連想としては、ウィンドウズの画面をどんどんサーフしていくときの、あの画面がぴゅっと広がったり縮 まったりする感覚である。クリックするだけで、寸鉄はいとも簡単に全体と化す。でも、それにうっとりと感動するというよりは、何なのだろう、これ? と考 えている。そして、いじってみる。遊んでみる。いつの間にか、淫しているのである。