昨日みたバスに乗って

小林紀晴

1870円(税込)

いたいけな罪悪感

鈴木清剛

マッシュルームヘアとぱっちりと開いた目が印象的な、ある一人の芸人がインタビューで「笑いって大きく二つに分かれると思うんですよ。一つの本当の話の中で細かい嘘をつくものと、一つの嘘の世界の中で本当を積み重ねていくもの。そのどっちかじゃないとだめなんです」と語っていた。

まあそうだろうなあと妙に納得した。思いあたるふしがあった。小説にも同じことがいえる。嘘とはつまり話の誇張や色づけのことであり、それらしく読んでもらうための術。個人的には後者のかたちをとることが多い。そして小林紀晴の場合はおそらく前者だろう。写真家でもある経歴や過去の作品から受けた勝手な印象にすぎないが、旅にまつわる話を書き続けてきたひとであり、それらは本当にあったこと、体験したルポとして写真と併せて綴られ、あるいはそう思わせるように書かれ、広辞苑に記載の【ルポルタージュ】の説明文を借りていえば「社会の出来事を報告者の作為を加えずにありのままに叙述する」ひとだと思っている。つまり想像力をたくましくして書く物語作家とは違う。しかし小林紀晴は小説も書いている。私小説のような記録文学というべきか。悪くいえば小説もどきで、おそらく作為的に事実を小説らしく再構築し、一個の作品として奥行きをつくりだそうとしているのだろう。個人的には、書かれていることが嘘でも本当でもどっちでもいい。読んで何かしら得て、心が揺さぶられたら価値を感じる。しかしルポでも小説でもない、どっちともつかない調子には、話をはぐらかされたように感じてとまどう。

本作『昨日みたバスに乗って』は、2001年にアメリカで起こった同時多発テロを軸にして「コバヤシくん」と呼ばれる「僕」あるいは「私」から派生する話が語られる。あの事件は世界中に伝えられた紛れもない事実であり、当時、作者はニューヨークのその現場からそう遠くはないところに在住し、それもまた一個の事実として知っている。いずれもテレビやメールで知った情報であり、現場を目で見て確かめたわけではないが、とにかく本書ではいくつかの事実が前提として置かれ、続けて語られる出来事も、だから事実として読み進めてしまう。しかしどうもようすがおかしい。読者が勝手に抱く先入観として、小説なら人生観とか娯楽性とか、ルポなら信憑性とか臨場感とか、それぞれに求める要素があると思うが、本作は二つの要素を同時に持ち合わせ、どちらでもあるのと同時にどちらでもない。旅行記かと思いきや虚構の物語のように思わせ、そして語り手は語りながら読者から遠のき、最後は自己完結したような印象を受ける。目的や胸に抱えた思いがよくわからない。いや、むしろ作者はそのへんのところを主題の一つにしているようだ。 「わからないことは、わからないままでいいのではないか」

同時多発テロから十ヵ月後、過去の著作に記した自分の言葉に「私」は疑問を抱き、ニューヨークからインドに飛んで過去の出来事と向き合う。それから数年後の話では、一人の韓国人女性が「本当の心の声を聞く必要など、ないのよ」と語る。読者としては「私」自身の答えでもあるかのように感じるが、実のところ答えなど見つけていないのだろう。そもそも、「私」はなぜニューヨークに住んだのか。事件以降、あるひとたちは死んで自分は生きている、その現実に違和感をおぼえ、ときには感傷的に、ときには怯えつつ、ひとの死に囚われている「私」。それらの感覚は事件以前に、インドで知り合った友人「蓮」の死に対する「一種の罪悪感」と?がっている。
《蓮はずっと私を離さない…〈略〉…私と蓮は確実に一時、溶け合ったのだ…〈略〉…深く底なしにすべてを共有し、解り合えた》

劇的に語りながら、「蓮」と一緒に過ごした当時の話は控えめに書いている。より深く書き込んでいたら読者も感情の共有ができたのにと思うが、それはおおむね「私」の奥に秘められ、読者は二人の関係を想像するしかない。一方、作者には自分を暴きたいという欲求があるのか、「私」というより「小林紀晴」に詰め寄る。他者との関わりを拒んで家から出ない「引きこもり」に対し、外国に飛んで「自分探し」の旅を続けるひとたちを「外こもり」と呼び、そういう話を「私」はインドで知り合った日本人女性から聞かされる。おおよそ作者自身に対してと思われる、批判的な言葉をみずから書いている。
「いまさら自分探しなんて。外国に行って、求めたり、変えようって、そんなことできるのかな? なんか、他力本願っていうか…〈略〉…」
「私」は「少なからず反発を覚え」るが、彼女に対して何も反論しないし、自分なりに答えを出すこともない。目的、あるいは答えを、もしかしたら作者は端から求めていないのかもしれない。旅にも、書くことにも、あるいは写真を撮るという行為にも。そういう姿勢は果たしてありなのか。いや、たぶん、ありだろうし、もしそうなのであれば見方を変えなければいけない。実際、本作には、次のような一文も出てきてはっとする。
《新たな物語を作り上げるのではなく、何かのきっかけでバラバラになってしまった絵柄を、もとに戻す作業をしていると思うのだ》

《写真の並べ方で世界や時間を浮き彫りにする。写真の並べ方一つで印象が変わる。意味やテーマは見る者に委ねられる。そのような話の中で語られる言葉だ。ひとまかせの、ずるいやり方のようで、作品の可能性をひろげられる方法。写真が何枚か並ぶと情景が生まれる。ひとは目に映るものに無意識のうちに意味を与え、それから何らかの感情を抱く。本作も同様に、情景の連続だ。その文書化された景色には「フォトショップ」のフィルタをかけたような、特殊加工が施されている。それ自体に意味があってもなくても、読者は難しいことなど考えず、情景の連続にひたすら身を委ねればいいのかもしれない。その波に揺られているうちに浮かび上がる「私」の人柄には、焦れったく思いつつも好感を持つ。自分を不用意には開示しない。言いたくないことは言わず、自分のやり方でしか自分をあらわさない。物事を冷静に見つめ、世間一般に流されず、不器用でもひとに優しい。朴訥なひとだと思う。ときには罪を感じて自分を責めている。その姿が妙にいたいけだ。