時穴みみか

藤野千夜

定価(税別):1,500円

はたして美々加は平成にもどれるのか

中島京子

 大森美々加十一歳(あと五日で十二歳)は、小学校六年生で、バツ一シングルマザーの菜摘と二人で暮らしている。仲良し親子も、娘がそろそろ思春期になれば、べったりというわけにはいかない。ましてや、菜摘には熊田という年下の恋人ができて、結婚も視野に入れた交際をしている。美々加の反応は微妙だけれど、時が解決するのではないかと母親は思っているらしい。

 そんなリアリスティックなバックグラウンドが示された冒頭の後、小説はくるりとねじれていく。美々加が黒猫を追いかけて、異世界に行ってしまうのだ。『不思議の国のアリス』以来、小説の世界では、少女が小動物を追い始めたら、あっちへ行ってしまうのは必然なのである。

 しかしここで藤野千夜読者は、行っちゃったよ、行っちゃったよ、どうすんのよ、帰れないよ、という緊張に晒される。藤野作品には『ルート225』という名作があり、それは『アリス』のような安心感ある夢オチへとは、まったく読者を誘わずに終わってしまうのだ。だから、異世界での不思議な出来事をじゅうぶん楽しんだ後、目覚めると何事もなく元の世界に戻る、という結末にならないことだけは、覚悟して読まなければならない。

 美々加が行ってしまった世界は、『ルート225』のような並行世界ではない。それは一九七四年の東京で、美々加はそこでは「小岩井さら」と呼ばれる小学四年生だ。ちなみに大森美々加の誕生日は平成△年三月十一日だが、小岩井さらは「昭和三十九年の三月生まれ」なのだという。昭和三十九年の三月生まれといえば、それはまさにこの書評を書いている私のことであり、そこでふっと私はこの物語に三人目の「私」として入り込みそうな錯覚を起こしたが、それはただの余談で、この小説とは一切関係がない。

 関係はないけれども、たいへん懐かしい。

 美々加が昭和の東京にまぎれこんでしまうと、必然的にそこに昭和の小学生が目にするディテールが出現する。先割れスプーン。ドーナツ盤とLP盤。瓶の牛乳。『ぎんざNOW!』。「んー、マンダム」。ノストラダムスの大予言――。小説の中に「洗濯機に入れる粉末洗剤『ザブ』の箱が」という記述が出てきたとたん、私の頭の中には、「頑固な汚れに、ザーブがー、あーるぅー」というCMソングが鳴り響いた。四十年近く思い出しもしなかった、とくに好きでもなかった歌だが、幼いころの記憶はどこかにしっかりしまわれて、勢いよく飛び出してくるものらしい。もうそうなると、あとからあとからあのころのことが思い出されてきてしまった。そういう意味では、自分こそが「時穴」なのである、という読み方はじゅうぶん可能だろう。読者が昭和三十九年三月生まれでなくても。

 五十過ぎの人間にとっては懐かしくてたまらない世界を、ちっとも懐かしく思えない美々加はなんとかしてサバイブしていく。もちろん、いつかママのいる平成に帰るんだという強い意志を持ちながらだけれども、昭和世界での同級生、カンバちゃんや阿部さんやみーさんやキムちゃんとは、上手に仲良くやっているし、タカラヅカという共通の趣味を持つ小岩井家の長女とも理想的な姉妹関係を結ぶ。

 引っ込み思案で内弁慶の美々加は、ママのいない環境を案外たくましく生きていく。それはもちろん、十一歳の少女とはそういうものなのだと考えることもできるかもしれない。つまり、『時穴みみか』は少女小説であり、少女小説とはそもそも成長小説である。小説は美々加という少女の精神的な遍歴と成長を描いているのだから、必然的に、すんなりと元の世界に帰れるわけがないのだと。つまり、人間というか、生きとし生けるものはすべて、帰れない、不可逆的な存在なのだから。あるいはこうも言えるのかもしれない。幼年期の終わりは、やはり、一つの大きな終わりなのだと。

 とはいうものの、小説の構造と結末は、『ルート225』とも違うし、いまこの書評を読んでいる(しかし『時穴みみか』をまだ読んでいない)読者が、ははんと考えついたものともおそらく違う。びっくりさせられることを楽しみに、読んでいただきたいと思う。

 五十代かそれより上の人々にとってはノスタルジーに浸ることのできる小説であり、十代の読者にとっては成長小説でありうる『時穴みみか』であるが、タイムトラベル物と言ってよいのか、一種の幻想小説である。この作品を読みながら私が何を思い出したかというと、それこそ小・中学生時代にハマって観ていたNHKの「少年ドラマシリーズ」(第一回放送は昭和四十七年で、放送は昭和五十八年まで続いた)だった。

 それはもしかしたら、美々加が体験する昭和のディテールのせいかもしれない。なにしろ男の子は半ズボンを穿いているし、女の子は吊りスカートを穿いている。しかし、あるいはSFっぽい設定の中に少年少女の成長をからませる独特のスタイルに、大好きだった作品群と共通したものを感じたためかもしれない。初回の『タイム・トラベラー』に始まり、『少年オルフェ』『夕ばえ作戦』(そうそう、美々加は昭和のテレビでずうとるびを観ることになる)『なぞの転校生』『明日への追跡』などなど、忘れがたい名作ぞろいのあのシリーズ。少し不思議な感覚なのだが、『時穴みみか』を読んでいる間中、私は「少年ドラマシリーズ」の最新作を観ているような気がしていた。そして、あのころと同じように、最終回が来ないで欲しいという思いと、美々加が帰れるかどうか知りたいという気持ちのせめぎ合いの中で読み進むという、たいへん幸福な読書をしたのだった。

 だから、もし可能なら、この小説が「少年ドラマシリーズ」としてテレビドラマになるのを観てみたい気がする。小説が映像化されると、その小説が好きだった場合、たいていなにがしか違和感に苛まれるのではあるけれども、そして、小説の心地良い脱力文体を読む楽しさと、映像を観る楽しさは決定的に違うはずだと知りつつも、ぜひ映像化、それもぜひ「少年ドラマシリーズ」で、と願わずにはいられない。