雨の裾

古井由吉

1870円(税込)

移りゆく季節と距離

柴崎友香

『雨の裾』に収められた八つの短編の中で、繰り返し冬が訪れ、年が暮れる。天候の変化も、随所で描かれている。

 各編のタイトルのいくつかにも「夜明け」「雨」「寒き」「冬至」と、日ごと、季節ごと、年ごとに訪れる現象を表す言葉がある。

 これらの現象も含めて世の中の変化のとらえかたを、「変移変遷について、この国の人間は古来、どちらかと言えば、移るの感覚のほうへ付いたようだ」「うつる世の中とは、(中略)しかし遠くを見るまなざしはある」「自分一個が生きながらえようと果てようと変わりもなく、季節のめぐりにもひとしい、と見ているのではないか」(「冬至まで」)と書かれている。

 自宅の周りや公園の木々の落葉や天気の急変、一日のふとした隙間のような時間を起点に、話は始まる。子供のころに夢で見た雷神の姿、何十年も前の路上で青年がふと口にした言葉、死の、あるいは死が近づいているとの知らせ、踏切で人を助けた男の話、空襲下にスルメを持って逃げた日々、年齢を重ねた身体の感覚、家に入り込んできた蟋蟀、アパートの一室で過ぎていく男と女の長い時間、数年を過ごした金沢の路地……。

 挿話は、連鎖的に思い起こされ、いつの間にか、知人の話、過去の話へと移っているので、行をたどる視線は何度か戻り、一度読んだところに重なりながら、刻まれた言葉と光景がだんだんと自分のうちで強い印象になっていった。しかし、像はいつまでも確定はせずに、向こう側が透けたまま濃くなっていくようにも感じた。ある場面に別の短編の部分が、幻影のように映し出され、奥のほうで反響しあう。その重なりの中にだけ、見えるものがありそうで、記憶の風景に目を凝らし、耳を澄ませるようにして、読んだ。

 それぞれの短編で語られる老いや闘病、死の姿は、どこか似通っていて、しかし、一人の人間に一度だけ訪れる経験である。すぐそばにいても引き受けることのできない経験だからこそ、周囲の人の心に長く残り続ける。記憶は別の記憶を呼び寄せ、いつのまにか、遠い過去の、聞いた誰かの、話になる。死者のことを語る人もまた、すでに死者となっている。

 毎年うつろっていく季節や気象だけでなく、繰り返される光景はいくつもある。

 病室、死にゆく人、眠り、道に迷う。

「見馴れた道が見馴れぬものに映る」「昔がいきなりもどる」「道に迷うということは、時に迷うことでもあるか」(「躁がしい徒然」)

 長い時間の中で、似た場所を通ったり、ふと別の時間・場所の記憶がよみがえったりする。語り手は、度々、道を行く過去の自分の姿を見る。道に迷い、家を間違えた人の声を聞く。

「宿のない人間はこの静かな街を一刻も早く立ち去らなくてはならぬ」「何かにつけて、戦災に無事だった街にこの自分がいま住んでいるということが、奇妙に思われた」(「虫の音寒き」)

 忘却や感覚の狂いは、なにか取り返しのつかないこと、間違いをしたことに、気づいていないだけでないか、ここにいること自体が間違いではないのか、との思いにつながる。

「自分がいま生きているのが不思議なような、じつは生きているんだかとうに亡いんだかはっきりしないような、そんな心地」「生きるのと死ぬのと、どれだけの境目があるのだろうか」(「踏切り」)

 年齢を重ね、身体感覚や空間認識が変化し、周囲ですでに死んだ人が増えたことで、その思いが強くなる。しかし、この感覚は、人間が自らの存在について意識するとき、年齢を問わずにあらわれてくる思いでもある。むしろ、仕事や雑事の慌ただしさや日常の欲求に抑えられていたのが、つなぎとめるものがなくなって、前に出てくるのではないか。「躁がしい徒然」や「春の坂道」で、路地で二十歳前後の青年がつぶやいた言葉が、何十年も経って思い出される。逡巡し移りながら、感覚と光景を呼び覚ます言葉によって、読む人も奥底の感覚を引き上げられる。

 人は歳を取って、視覚や聴覚、身体は弱っていくが、その分、「予兆のようなもの」や気配を感じ取る能力や感覚は研ぎ澄まされていくのかもしれない。

 生と死が、重なり、通り抜け、時には逆転するかのように感じられる。しかし、死者は、すでにこの世にはない存在であることは、揺るがない。時間や場所の区別が曖昧になり、死との境界が近づけば近づくほど、「生」が際立つ。語る側がまだこちらに存在すると実感し、それゆえに死について思う。季節が何度も積み重なるのを読むうちに、人が過ごしてきた時間の長さ、歩いて来た道の遠さが思いやられる。

 列車での移動も何度か語られる。

「長い距離を高速度で切り捨ててきた客の、内心の時間はどんなものなのだろう」(「冬至まで」)

 距離を移動することは、人の生きる時間に通じる。時間の距離は崩れ、幼い日の記憶が重なる。

「あの鈍行列車の中で子供は死者を見送る生者の側にあったのか、それとも、生活の灯にぎりぎりまで縋ろうとする死者のほうに付いていたのだろうか」(「冬至まで」)

「その子供がいまでは掛け値なしの年寄りとなった」(「虫の音寒き」)

 一冊を読み終えて、いちばんはっきりと浮かび上がったのは、子供の姿だった。夕陽を見つめ、蟋蟀に耳を澄ませ、寒さに体を丸める。この世界に、身ひとつで投げ出された存在であることを意識した、そのときの感じが、そこにあった。

 だれもが経験したはずだが忘れてしまった、子供の不安と孤独と、世界に直接対峙する強度と、言葉ではなかなか説明できない感覚を、こんなふうに小説は、読む人の体のうちによみがえらせ、人の存在を書くことができる。