無名亭の夜

宮下 遼

定価(税別):1,700円

我に返る、彼に返る――物語の七つ目の神秘

鴻巣友季子

 世界とは、言葉でできた「物語」であるなら、物語の組成を解き明かすことが、世界の根本原理を暴くことにつながる。世界の成り立ちをそのまま映した恐るべき小説といえば、セルバンテスの『ドン・キホーテ』が先駆と言えるだろう。現代文学では、ジョイスであり、チェスタトンであり、ボルヘスであり、カルヴィーノであり、ボラーニョである。そして、ここ日本に登場したのが、トルコの作家オルハン・パムクの翻訳者として知られる宮下遼だ。

『無名亭の夜』の表題作は、現代の東京にある名前のない「あの店」(無名亭)と、大昔の異国の地、または、現実と虚構を大胆に往還しながら、物語を形作る七つ目の神秘を探す、七夜から成る小説集である。語り手/視点人物は節ごとに交替する入れ子構造で、全体の構図を把握するのはそうたやすくない。

 冒頭、「幕前 ◆」と記された後に、「かくして、故国ルームを離れたイスケンデル――この世の果ての探索者たるかの大王は」と始まる。実は、この部分は語り手の回想で、今この語り手は〝語り部〟役として、酒場の小さな舞台に出ていくところらしい。客からの「日本はいかがです?」という問いかけからするに、場所は日本。作中ではアル・ワクワーク(倭)と記されている。とはいえ、店の語り部とその従兄の店主は、どこか「とんでもなく辺鄙な」国から来た異邦人のようだ。さて、語り部の従弟は今宵も、昔々の帝国の物語を語りだす――。

 ある属州の田舎貴族の三男がアフメドという連隊長から文字を習い、彼の引き立てで近衛歩兵となる。少年が習うのは、アリフから始まり、右から左へと書かれる文字、すなわちアラビア文字。舞台はオスマン帝国でアラビア文字が使われていた時期で、十五世紀前葉のようだ。この少年が稀代の詩人にして語り部に成長していくストーリーが見えてくる。

 交替する語り手/視点人物が、節の冒頭に明記されることもある。定期的に繰り返し出てくるのは「●少年」と「■彼」という二つのラベルだけで、あとは「〇アフメド」、「□黒い飾り袖の副官」、「◇珈琲店の店主」などなど。人物の明示のない節は冒頭のように、「◆」の印だけで始まるが、「■彼」の節以外は一人称文体で、それぞれ「私が」「吾輩が」「わしが」「俺が」「小生が」と言うのでややこしい。◆印の節もよく読んでいくと、その人物が“ペルシア人の語り部”なり、“無名亭の語り部”(従弟)なりと判明する仕組み。

 しかし、ナラティヴを不穏に揺さぶる一番の曲者は、「■彼」節の「彼」である。二十三歳から四十三歳頃まで間遠ながら無名亭に通ってくる匿名人物だ。この人物は日記をつけているが、そこに書きこむ文章までが「私は……」という一人称ではなく、「彼は……」と書かれる。日記内では、無名亭で「彼」が聴いた物語の記録は枠線で囲い(実際には一重括弧が用いられている)、「彼」自身の考えは二重括弧で括ることに決めている。物語と現実を律儀に分けようとしているのだ。

 少年と“語り部”が交わすこんな会話がある。

「枠線が境界│知ってる? この街の境界はこの石垣なんだよ」〈中略〉「その枠線の外……いや中なのか? とにかくその向こう側へ行くにはどうすればいいの?」物語の世界へ行く術? 考えたこともなかった。

「……この世がただお一方、神の思い描かれた物語であるのなら、どこかにその果てというものが存在するかもしれない。しかし、その一方で神は唯一にして全能でもあるから、神に限界を設けるなどという異端にとりつかれた者は少ないし、〈中略〉行って帰って来た者となると、私の知る限り一人しかいない」

 二十一世紀に生きる宮下遼にとって、この世は「ただお一方、神の思い描かれた物語」であるだろうか? そうではないはずだ。近代小説の始祖『ドン・キホーテ』(そう、これは元々アラビア語で書かれたという設定だ)を、ミラン・クンデラはこんな風に評した。

「至高の『審判者』の不在のなかで、世界は突然おそるべき両義性のなかに姿をあらわしました。神の唯一の『真理』はおびただしい数の相対的真理に解体され、人々はこれらの相対的真理を共有することになり〈中略〉近代世界の像でもあればモデルでもある小説が誕生したのでした」(金井裕・浅野敏夫訳『小説の精神』、法政大学出版局)

「無名亭の夜」の語り手がこんなに「解体され」て多数いる理由もここにある。本作は、語られる内容と、その表現形態との際やかな〝齟齬〟が痛快な醍醐味でもあるだろう。

「彼」という人物は謎が多い。とくに日記に書かれる「彼」は「私」や「僕」に変換されてもいいはずだ。三人称で日記を書くなんてヘンなのだから(「我に返る」という慣用句までを「彼に返る」と言い直しているのには、その徹底ぶりに破顔した)。さらにいえば、この「■彼」節の語り手はだれなのか? 日記の書き手と本作の作者の間にいる「彼」とはだれなのか? と言いかえてもいい。「彼」はいつしか従弟の語る物語の中に入りこみ還ってきて、ある決心をする。

『若い芸術家の肖像』に連なるこのスタイルのエンディングは、ポストモダン時代によく見られたし、一昨年は岩城けいの話題作『さようなら、オレンジ』でも議論が分かれたと記憶する。ごく最近では、青木淳悟が『匿名芸術家』で自らの処女作とのコラージュで、興味深いヴァリアントを提示した。

 作品の書き手が最後に現れ、テクストの円環をほのめかすというのは、現実と虚構の境を揺るがす魅惑的な手法だ。物語の謎めいた聴き手である「彼」は、スリルをもたらしてもいるが、この手の結末を一手に支えるには、ちょっぴり存在感が薄い気もするのだ。一方、オスマン帝国時代の逸話の数々には人間将棋あり、目も綾な写本あり、人ならぬ耳の長い生き物あり、じつに彩り豊かで鮮烈で匂いたつようで、要は入れ子の中身がフレームストーリーを圧倒気味なのかもしれない。あとほんの僅かバランスを調えることで、二十一世紀の「千夜一夜物語」として飛翔すると感じた。得がたい読書体験だった。