琥珀のまたたき

小川洋子

1650円(税込)

琥珀――記憶を閉じ込める石

松永美穂

 世界の片隅の、小さな場所。温泉地の別荘の、壁に囲まれた空間のなかで、三人の子どもたちが暮らしている。学齢に達しても学校に通うことはない。外へ出てはいけないという母親の言いつけを守り、けっして大きな声を出さず、ひっそりと寄り添って日々をやり過ごしている。その狭さのなかで、彼らは充分に満足している。庭の木々を見て四季を感じ、書斎にある図鑑を読んで自分たちなりの勉強をし、歌ったり、手芸をしたり、絵を描いたり、物語を聞かせ合ったりする。外の世界は、彼らの妹の命を奪った「魔犬」に代表される、恐ろしい世界。これ以上子どもを失いたくないという母親の神経過敏な希望を尊重し、彼らは別荘の敷地のなかにとどまり続ける。外の世界に、会いたい人間は特にいない。父親と一緒に暮らしたことはないし、祖父母や親戚も、一度も登場しない。外界からまったく存在を知られないまま、子どもたちは少しずつ成長していく……。

『琥珀のまたたき』には、いかにも小川洋子らしい、緻密で濃密で美しく、それでいてどこか物悲しい世界が紡ぎ出されている。閉ざされた空間で、一つのことにこだわりながら有限の生を生きる人間の姿を、彼女はくりかえし描いてきた。世の中の流れから取り残された人々、というよりも、世の中の流れとは無関係に、自らの時間を生きている人々。そこには狂気に近い思い込みがあったり、癒やされることのない孤独があったり、「いま」という短い時間にかける強い願いがあったりする。危ういバランスの上に保たれた生活が、いつか積み木のように崩れてしまう予感は、作品の冒頭から漂っている。小川が描く濃密な空間は、満開の花や、完璧な模様に織り上げられた蜘蛛の巣のように、一瞬の奇跡としてそこに成立し、然るべき時間の後に消え去ってしまうものなのだ。儚いけれど、あまりにも美しい。そして、振り返ってみれば人生のなかで記憶に残る美しい瞬間も、すべてそのように儚いものだと思い当たることになる。

 三人の子どもたちは、テレビも新聞もない日常のなかで、時代の動きとは一切無関係に生活している。彼らと世界をつなぐのは、書斎の本棚に並んださまざまな図鑑。父親が残していったその図鑑を、長男と長女はそれぞれ本棚の反対側の端から一冊ずつ、手にとっていく。世界を記述し説明する図鑑に対して、小川洋子はこれまでも特別な愛を表明してきた。本書では子どもたちの父親と母親が、図鑑制作の仕事を通して出会ったという設定になっている。さらに子どもたちは、別荘に籠もる際に、それまでの名前を捨て、偶然開いた図鑑のページから、自分たちの新しい名前を選んでいる。その名前は「オパール」「琥珀」「瑪瑙」。絵を描くのが好きな「琥珀」は、死んだ妹の幻影を、図鑑の余白に描き込んでいく。

 物への執着や、さりげない物が人間存在の証となる点も、いかにも小川文学らしい(『沈黙博物館』を思い出してみよう)。本書では三つの石が三人の姉弟たちを表している。ある日別荘を訪れて、子どもたちと外界との唯一のつなぎ手となる「よろず屋ジョー」も、物を運んでくる人間である。記述が固定された図鑑とは違い、ジョーの運ぶ品物には季節感がある。ジョーと出会い、「オパール」が彼と手紙をやりとりするようになってから、子どもたちの世界には綻びが生まれてくる。それは、閉鎖空間で過ごすことを強要された少女の思春期とも関係があるだろう。「オパール」は母親の噓を見抜き、批判するようになるのだ。

 是枝裕和監督の映画「誰も知らない」を思い出した。あるいは、これも映画化された「ホームレス中学生」や、テレビで紹介されていた、学校に通えない子どもたちの話。ある少年は、夜逃げした親の車であちこちに移動し、車内で弁当を食べて生活している。彼は学校に行けないこと、自分の存在を知る人がいないことで悩んでいた。さらに、ナチス占領下のアムステルダムで隠れ家生活を送っていたアンネ・フランクのこと。小川洋子は閉鎖空間のなかで書かれたアンネの日記に強い感銘を受け、『アンネ・フランクの記憶』という著書を出版しているが、閉ざされた生活のなかで想像力が羽ばたいていく様子は、本書のなかで子どもたちが考え出す、図鑑からキーワードを選んで物語を創る遊びに、生き生きと描かれている。

 本書では、子どもたちは放置ではなく軟禁され、母親の行きすぎた愛と所有欲の犠牲になっている。それでも彼らは彼らなりに母を愛し、「他者」のいない生活のなかで充足している。主人公の「琥珀」は、閉じこもっていた家から「救出」されてからも、別荘で送った日々を追憶し続ける。そして、ぱらぱらと紙をめくると出現する動画によって、ほんの束の間、家族を再生させようとするのだ。

「他者」の目を通して語られることのなかった子どもの様子が、本書の終わり近くで水道メーターの検針員の女性の証言として語られる。この描写は残酷だ。それまでの語りが子どもの目線であっただけに、読者にはいきなり現実が突きつけられる形になる。繕いだらけの小さすぎる洋服と、母親が縫い付けた奇妙な鬣や尻尾(それは子どもたちをメルヒェンの世界に閉じ込めたい願望を表している)。微かに震え、うな垂れて、聞き取れないほどの声しか出すことができない少年。閉じた空間での「幸せ」が崩れてしまう瞬間だ。一方、小説のなかには、老いた「琥珀」と同じ老人ホームで生活し、共感を持って彼を見守る語り手の「私」が登場する。彼らが互いを尊重しつつ理解と思いやりを示すことは、「琥珀」の晩年における慰めといえるだろう。

 閉じた世界への愛と執着。考えてみれば、琥珀という石も、長い時間を経てできた樹脂の化石であり、しばしば昆虫などをなかに封じ込めている。偶然選ばれたように見えるこの名前自体が、数奇な歳月を送った子どもの人生を象徴しているのだ。