地上生活者 第5部 邂逅と思索

李 恢成

定価(税別):3,300円

生身の小説家が体現する民族と歴史

富岡幸一郎

 本書は『群像』に二〇〇〇年一月から連載されている長編小説の第五部である。主人公の趙愚哲は芥川賞(作中ではA賞)を受賞し作家となった「在日」朝鮮人二世であり、日本の植民地時代に樺太(サハリン)に生まれ、敗戦によって引き揚げて来た体験を持つ作者の自伝小説と言ってよい。

 第四部(二〇一一年九月刊)は一九六六年から八〇年五月の光州事件(韓国光州市での流血の民主化闘争)までの時代を描いているが、金大中事件、朴大統領狙撃事件、拉致疑惑などが相次いで起こる。金日成の革命思想を信奉しながらも、その幻滅の現実から主人公は「北であれ南であれ、わが祖国」の思いを秘めて韓国へと潜行するが、そのことは同胞の激しい反発にあう。朝鮮総連を離脱し、文学者として祖国の現実を知るために訪韓したことは作家自身の大きな転機となるが、その後一九九〇年代に韓国の国籍を取得することでさらに批判に晒される。

 本書は、このような戦後七十年の世界史の激動、とりわけ朝鮮戦争以降の南北分断に象徴される冷戦構造の過酷な現実に、在日の小説家として対峙することになるおのれの姿を赤裸々に、時に痛苦に満ちた筆致で余すところなく描き出そうとしている。しかし、この十五年余に渡って書き続けられている大作が、過去の歴史の自伝的記述に留まらないのは、趙愚哲という三人称、「ぼく」という一人称、また「ぼく愚哲」という表現を巧みに混在させながら、また時に他者の視点からの叙述へと転換を試み、小説というフィクションの多様な可能性を実現しているからである。つまり、ここでは戦後文学者が目指した、いわゆる全体小説(歴史・社会・人間を総合的に作品化する)の継承がなされているとともに、その限界をさらに広げるために、近代日本文学の私小説的な話法が組み合わされているのである。『地上生活者』はそこで、これまでの日本文学になかった柔軟にして勁い、鋭いイロニーとヒューモアを孕んだ新たな話体を作り出している。この話体は、過去の歴史上の出来事の内側に入り込むようにして、真実を浮き彫りにし、作家自身の「私」の内面に緩やかに浸透しつつ、それを対象化してみせる。

 第五部となる本書の冒頭では、「ぼく愚哲」が情熱を傾けて書き上げた大長編『果てしない夢』(李恢成の『見果てぬ夢』六分冊)について、尊敬する先輩作家である保岡庄太郎(安岡章太郎)と「G誌」(「群像」)で対談した際に、保岡から韓国の資本家の描き方が硬直しており、左翼文学の型に嵌りすぎている、との徹底した批判を受けるところが描かれている。趙愚哲は、この厳しい指摘によって「自分の内部で何かが変って」いくのを感じるが、それは作品を書けなくなるという事態にまで立ち至る。さらに、その後に書いた小説に『流離譚』という題名を(保岡が同じタイトルで長編を連載していたことを迂闊にも知らずに)付けてしまったことの顚末なども記されている。このような、プロの作家としては語りたくないようなことも、過去と現在、他者と自己の亀裂をフレキシブルに呼吸するように繫ぐ文体の力によって描き出される。本書の後半、西ドイツで出会った安淑伊との男女関係を描くところで、この文体力は最大限に発揮されている。

 本書の前半では、一九八一年に趙愚哲が故郷のサハリンへ妻と一番下の子を連れて帰郷するところが山場となる。自分らの家族が、かつてソ連軍の侵入とともに故郷の地を捨て脱出するとき、愚哲の義理の姉を島に置き去りにしてしまったことは、長い歳月を経ても拭いきれない罪悪の思いとして残り、かの地での彼女との再会という重い課題を愚哲は負う。そしてサハリンでは、ソ連籍として生きる朝鮮人やユダヤ系ソ連人、無国籍者など民族、国籍、歴史の狭間に生きる現地の人々の様を知る。また、日本政府はサハリン在住の邦人の帰還運動を進めているが、植民地時代に樺太へ朝鮮から強制的に徴用令によって引っ張って来た朝鮮人を、法律的には日本人とみなして帰還を促していることの歴史の複雑さに立ち会う。

 日本の領土であった南樺太に敗戦の時住んでいた日本人は約四十万人といわれており、一九五六年の日ソ国交回復での集団帰国、九〇年の残留日本人の一時帰国事業などが行われて今日に至っているが、そこに多くの朝鮮人が含まれており、戦前の植民地支配の問題が深く関わっていることを、本書は改めて歴史の現実として示している。しかも、愚哲その人の生々しい感触を通して、この場面が描き出されていることに注目せずにはいられない。植民地支配、戦争、祖国の分断、資本主義と社会主義による冷戦構造の亀裂と矛盾、そのことがもたらす酷薄な現実が凝縮する樺太(サハリン)の地。この愚哲の故郷への旅は、彼自身の作家としての人生の転機であるとともに、戦前戦後を貫く歴史に翻弄される人々の人生を鮮烈なまでに映し出す。

 本書の後半は、西ドイツが舞台となる。フランクフルトの韓国人の学術研究団体KOFO(韓国の反独裁民主化を目指す知識人のヨーロッパの拠点)の招聘を受け、西ドイツに赴いた趙愚哲は、そこで二十歳ほど年下の安淑伊と出会う。ハイデルベルクで理論物理学の助手をしている淑伊の真摯で情熱的な生き方に、宿命的な出会いを感じた愚哲は、彼女と恋愛関係に陥る。数えの五十歳で妻と三人の子供のある愚哲にとって、それは普通では考えられぬことであったが、家庭の崩壊を覚悟の上で、科学を祖国に持ち帰るという意志に満ちた淑伊にのめり込んでいった。ハイデルベルクの彼女の家に居候の身となり、そこで両者の間で歴史や科学、民族や政治などさまざまな議論も交わしながら二人の関係は深まっていく。本書の最後は、安淑伊の行方と愚哲の家族の困難が描かれているが、主人公に関わる在日の文学者や映画監督などの挿話が絡まり、民族と家族という普遍的なテーマが前面に出てくる。実在の人物達が描かれ(仮名で表記されているがすぐに見当がつく)興味は尽きない。第六部はさらなる波乱を予感させる。