大きな鳥にさらわれないよう

川上弘美

1650円(税込)

あれは私のことだったのか

本谷有希子

 私は全体像を把握することが苦手である。

 例えば、「よーし、みんなが喜ぶものを書こう」と思ったとしても、その「みんな」というのが誰なのか分からない。私の本を読んだと直接言ってくれる人など、手と足の指全部を合わせれば事足りてしまう。Aちゃん、B君、C夫妻、Dのおっちゃん……、じゃあその全員が喜ぶものをと考えた時、やはり「みんな」は煙のようにかき消えてしまう。「みんな」とは一体、何なのだろう。

 川上弘美の新作『大きな鳥にさらわれないよう』を読んでいる時も、私はまた同じ気持ちに捕らわれた。個々の視点で描かれた各章は、それだけで読んでも面白く、魅惑的で、私の胸をワクワクさせたのだが、読み進めるにつれ、それがある「特定の世界」の話であり、どうやらすべては繫がっているらしいと気付き、じぶんに果たしてこの物語の全体像を把握することができるだろうか、とドキドキした。

 例えば冒頭の「形見」には、白いガーゼのうすものを羽織り、石畳を踏んで川まで湯浴みに行く女たちが描かれる。どこか懐かしいような光景だが、そこは日本ではない。そもそも「国」という概念がないらしい。彼女たちの夫は工場で働いている。食料と、それから子供たちを作る工場だという。

 また「緑の庭」に出てくる世界では、無数の女に対し、十数人の男しか存在しない。女たちは子供を作るため、「男」という生き物に選ばれたら褥を共にし、出産するようじぶんの娘に教え込む。理由も分からぬまま、語り手の娘は幾人もの子供を出産し、やがて年頃になったじぶんの娘にも、同じことを教え始める。

「水仙」の語り手は、突然訪ねてきた若いじぶんと二ヵ月間生活を共にし、やがてかつて歳をとったじぶんが背を向けて去って行ったのと同じように、ホバークラフトに乗って町を出て行く。表題作にはどうやらこの世界の規範となる計画を発案したらしい二人の男も出てくる。全貌が見えそうで、見えない。私は頭の中がむず痒いような、じれったい気分で、ふんふん言いながらページを捲った。中華鍋で炒めたパラパラのご飯粒一つ一つを合わせたものをチャーハンと呼ぶように、私はこの世界の状態をなんというのか、多分知っているのだ。が、それぞれの語り手は、いつまで経ってもAちゃんとB君とC夫妻とDのおっちゃんのまま、なかなか一つにまとまろうとしてくれない。一つの言葉に集約される、それ以前の状態にゆらゆらと留まり続ける。

 私は行く先に点々と置かれた餌をついばむように物語をかき集めて読んだ。個々の視点を楽しみながらも、この世界の全貌がどうなっているのか、野暮な興味を持たずにいられなかったのだ。

 中盤に差し掛かる頃、はっとする言葉を発する語り手が現れた。その語り手は、もはや人、かどうかも怪しかった。何せ緑色の皮膚をしており、合成代謝とやらをするという。その新たなひとりは、飄々と、こう言ったのだ。

 ――人類って、今よりもっとずっとたくさんいたのか。ふんふん、そうなんだ。でも、減っちゃった、と。

 それの、どこがいけないの?

 私は思わず「おー」と呟いた。それから急に、胸がドキドキしてきた。ああ、ついにまとまっちゃった。人類滅亡。そーだ、この状態ってそういうんだっけ。けれどドキドキしたのは、そのためではない。彼のその発言が、私が小さな頃から感じてきたこととそっくり同じだったからだ。

 人類がいよいよ滅びる、という状況を扱った映画を観るたび、子供の私はなんだかもやもやしてしょうがなかった。主人公の活躍でその未曾有の危機を免れてホッとするのと同時に、いつも、「別の誰かから見たら、本当はものすごいバッドエンドなんじゃないん?」「いっそあのまま滅びたほうがよかったんかもしれん、私らみたいなんは」と、ずっとずっと密かに思ってきたのである。別の誰かが悲しんでいるような気がしてしょうがなかった。それが誰なのかまでは、わからなかったけど。

 この小説を読んで、その誰かとはもしかすると小説を読んでいる私なのかもしれない、と思った。いや、正確には小説の中に存在する世界を俯瞰している私。痛くも痒くもないところで寝転がりながらページを捲っている、私。自分が小説世界に対して持っているこの視点。これこそが、かみさま、のそれなのではないかと思ったのだった。

 続けざまに、小学校のグラウンドの片隅で草むしりをしていた時のことを思い出した。

 すぐ足元で無数の蟻が、私の存在など気づくこともなく、ひしめき合い列をなしていた。でかすぎて、人間のことなど目に入らないのだろうと思った私は、ふと気になって、自分の頭上を見上げた。ほとんど無意識に近かった。しかし気付くことすらできない何かが、私たちのことをじいーっと見下ろしている可能性について、初めて思い至ったのである。そして、その存在がいたとして、その頭上にさらに大きな存在がいないとは限らない、だとしたら、その存在すらも誰かに見下ろされているかもしれない。さらにその存在も。

 この小説の中の人々は、私の視線にまったく気づかない。自分たちの見つめている人類に気を取られ、それで手一杯である。それで、ますます私はじいーっと見つめてしまう。彼らの行為を見届けようとしてしまう。まるで、彼らのかみさま、みたいに。

 私は全体像を把握するのが苦手である。

「みんな」と集約された一言からは、AちゃんのこともB君のこともC夫妻のこともDのおっちゃんのことも、やっぱり私には想像できない。だけどこの小説を読みながら、Aちゃん、B君、C夫妻、Dのおっちゃんそれぞれから見えている場所をつなぎ合わせて、世界、の形を想像することはできるかもしれないなあ、と思ったのだった。

 読み終えたあと、ページを閉じた。それから、自分までも川上弘美に描かれた語り手になってしまったかもしれないと思い、思わず背後を振り返った。読み応えがある、なんて言葉じゃ足りない一冊であった。