我々の恋愛

いとうせいこう

定価(税別):1,900円

いとうせいこうの世界性

小野正嗣

 アメリカ現代文学の翻訳者として活躍のめざましい藤井光が最近刊行した『ターミナルから荒れ地へ』という抜群に面白いアメリカ文学論によれば、いまアメリカ小説は、「アメリカ」を語るという使命感から自由になり、より無国籍化しているという。アメリカの若手作家たちの作風は、より幻想性や寓話性を帯びたものとなり、彼らの感性や発想と、世界の他地域で書く作家たちの感性や発想とがシンクロしていると藤井は指摘する。アメリカの作家が書く小説はもはや必ずしもアメリカ的とは言えず、日本の作家が書く小説が必ずしも日本的だとは形容できなくなっている、そんな状況が一般化しつつあるのだ。書く際に意識のどこかを呪縛していたかもしれない「アメリカ文学」、「日本文学」といった枠組みや伝統から離れて、誰もがただ「文学」を書く時代、言葉の真の意味での「世界文学」の時代がついに到来したのか。

 もちろん、世界の様々な場所で日々書かれている小説のすべてを読むことなど誰にもできない。しかし世界そのものを肌身で感じながら、国境なき同時代文学の新しさ、面白さ、多様さを受信しようと意識的に自分をたえず開こうとする書き手はそれでもいる。その筆頭がいとうせいこうだろう。

 たとえば、本書においては「テーマパーク」と「養蚕」が重要な役割を担うのだが、この二つはまさにそれぞれ、現代アメリカの最重要作家の一人カレン・ラッセルが長篇『スワンプランディア!』(ワニのテーマパークが舞台)と短篇「お国のための糸繰り」(明治時代の日本の製糸場が舞台)の主題である。これは偶然の一致なのか、それともラッセルへの目配せなのか。意識的にせよ無意識的にせよ、こうした共鳴に、いとうせいこうの世界文学への志向が窺える。

『我々の恋愛』は、日本を舞台にしながらも多国籍的・無国籍的な雰囲気をまとう不思議な恋愛小説である。二〇〇一年に日本の山梨に恋愛学者と呼ばれる恋愛の専門家たちが集結し、第十七回『二十世紀の恋愛を振り返る十五ヵ国会議』が開催される(なんとも人を食った始まり方だ)。そこで最高賞を獲得した「日本の恋愛事例」が『BLIND』と名付けられ、日本、タイ、インド、アメリカ、オランダ、ブラジル、台湾、セネガルの学者で構成される調査委員会によって報告書としてまとめられることになる。

 この恋愛の当事者が、東京にある大型遊園地『あらはばきランド』(「あきはばら」ではない)に勤める華島徹と、群馬県桐生市のパン製造販売会社で新しい酵母の開発に邁進する遠野美和である。美和がかけた間違い電話をきっかけに、思いもよらぬかたちで二人が恋に落ちる顚末を、『BLIND』委員会の多国籍の面々が、報告書として綴ったものが、本書の大部分を構成している。

 報告書とはいうものの、恋愛学者たちの書き方は自在である。たとえば、ブラジル人のシウバの報告書は、あたかも華島徹自身が書いているかのように――つまり彼の発した言葉を転記するかたちで書かれているのに対し、日本の佐治や台湾の金、オランダのビーヘルの報告書は、徹と美和を主人公にした三人称の小説のように書かれている。そして、それぞれの執筆者たちは、日本文化圏以外の読者を想定して、「両国(十八世紀から相撲レスリングの興行地として栄えた街)」や「運動会(日本では、学校や企業が成員による体育競技を決まった日に行う)」といった具合に注釈を付ける。日本の男女の恋愛を記述するために、外国語の存在が不可避的な役割を果たすような状況をわざわざ作り出すあたりに、大げさな言い方になるが、いとうせいこうの世界性がある。

『BLIND』調査委員会の報告書はそもそも英語で書かれ日本語に翻訳されたものだったが、本書を貫くもう一つのプロットも翻訳という行為抜きには考えられない。それは、トルコの世界的恋愛詩人カシム・ユルマズと、彼とほぼ五十年ぶりに再会した日本人の島橋百合子がかわす電子メール書簡である。カシムには日本語が、百合子にはトルコ語がわからないのだから、必然二人の言葉のやりとりは英語でなされることになる。

 翻訳は異なる二つの言語、文化のあいだをつなぐと同時に、原文から多くのものを取り落としてしまう。原文のリズムや響きが失われるのは言うまでもないが、意味そのものが歪められ間違って伝達されることがある。そこにはつねに耳障りな雑音が混じり、ありうべからざる沈黙が生じる可能性がある。

 しかし、誤訳や誤配が思いも寄らぬ素敵な何かを生み出すことも否定できない。雑音が音楽になり、沈黙から新しい言葉が語られ始める。遠野美和が間違ってかけた番号の留守番電話のBGMとして聞こえてきたビル・ウィザースの『Just the Two of Us』のメロディ、そして電話に出た華島徹が受話器の向こうに感じ取った深く長い沈黙は、まさにそういうものだ。

 そもそも恋愛とは、たがいにまったく違うバックグラウンドを持つ二人の、つまり異質な二つの世界の出会いである。恋する者は、自分の感情や思いが相手に伝わっているのか、自分の言葉は誤解されているのではないかとたえず不安につきまとわれる。ちょうど誠実な翻訳者のように。そして相手を知れば知るほど、不可解で不可視の領域は拡大していく。なぜ徹と美和の二人の恋愛が『BLIND』と呼ばれるのか。ここでは、「恋は人を盲目にする」という諺が、比喩的にではなく字義通りに翻訳されたかのような現象が生じるからだとだけ言っておこう。

 徹と美和の恋愛にとって決定的な事件が起きるのが、一九九五年一月十六日(阪神・淡路大震災の前日)。物語の最後でアメリカ西海岸に渡った百合子が、ニューヨーク経由で来るはずのカシムを待ち続けるのが、二〇〇一年九月十一日。二〇一一年三月十一日について『想像ラジオ』を書かずにいられなかったいとうせいこうは、どうしてこの二つの日付を我々に思い起こさせなければならなかったのか。答えは読者が各自で考えるべきことだ。でもこれだけは確かだ。

『我々の恋愛』は、我々の生きるこの世界そのものへの意識に貫かれた文学的想像力の素晴らしい達成である。