BB/PP

松浦寿輝

1870円(税込)

宇宙的孤独のリリシズム

中条省平

 松浦寿輝が二〇〇二年から一六年にかけて発表した九作を収める短篇集です。

 近未来SFあり、ミステリーあり、幻想譚あり、エッセー仕立ての私小説ありと、多彩な題材をいささかの弛みもなく捌き切った逸品揃いで、作者の小説技術はその頂点に達している観があります。

 まずは最新作にして表題作の「BB/PP」。松浦寿輝にしては意外なことに、これは二一世紀末を舞台にしたSFです。しかし、この一作の血脈ははるか一八世紀英国のゴシック・ロマンスに連なり、中世ヨーロッパの青ひげ伝説にその淵源があります。

 冒頭のエピグラフに『グリム童話集』から「青ひげ」の一節が引かれているとおり(ペロー版ではなくグリム版が採用されたのは、映画『シャイニング』の予告編のようなその流血の情景が松浦氏の嗜好に合ったからでしょうか)、表題のBBとはBlue Beardのことです。本作は「青ひげ」の本歌取りによる近未来ゴシック奇譚であり、グラン・ギニョルもかくやと思われるばかりの、バタイユが『エロスの涙』で論じた中国の死刑に匹敵する残酷物語です。その描写はこってりと酸鼻な血みどろ趣味に彩られながら、主人公・青ひげのどこか江戸前のべらんめえ口調がじつに痛快で、嫌味な耽美主義とは無縁のすがすがしさを感じさせます。

 いっぽう、表題後半のPPはPurple Pubes(紫の陰毛)の略で、二一世紀末のテクノロジーの粋を注ぎこんだ人間そっくり、いや人間以上の知能をもつ、「ランボルギーニの最高級車の十数台ぶん程度」の値段がついたアンドロイド、平たくいえば完全自動のダッチワイフなのです。文学的にはヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』が、このヒロインの遠い先祖だといえるでしょう。

『未来のイヴ』は理想の女というロマン主義的夢想を苦いアイロニーに沈めましたが、「BB/PP」、すなわち青ひげと未来のイヴのラヴストーリーも、その苦い味わいを共有するように見せて、ラストで青ひげの「開かずの間」の秘密へと物語の焦点を移します。小説のヴィルトゥオーソによる間然するところのない寓話の出来上がりです。「BB/PP」は本短篇集随一の超絶技巧的完成度の高さを誇っています。

 そうかと思うと、別の短篇「ミステリオーソ」は、まるで村上春樹の向こうを張るかのように軽妙な口語体による「ぼく」のパリ留学の回想談で、出てくる経歴や年代の言及によって、「ぼく」が作者自身を思わせる仕掛けになっています。

 表題の「ミステリオーソ」はジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクの異色のオリジナル曲で、ジャズ好きならばすぐにジョニー・グリフィンやソニー・ロリンズのテナーの響きが耳に甦ってくるはずですが、「ぼく」はパリ留学中の一九七七年にシリア人のガールフレンドに誘われてモンクの生演奏を聞き、モンクその人と会話をしたというのです。

 モンクが晩年、重度の統合失調症を病み、家にひきこもっていたという事実を、私はクリント・イーストウッドが製作した『ストレート・ノー・チェイサー』という記録映画で初めて知りましたが、ちょうどその頃、モンクがパリに来て演奏していたなんて!

 松浦氏の軽やかな筆はこのちょっと信用しがたいお話を、真面目と無責任が等量に混ざったカクテルのように調合し、絶妙の酔い心地へと読者を誘います。その結末はいささか哀しくノスタルジックな感慨に浸されて、「BB/PP」とはぜんぜん違う感触ですが、これまた極上の味わいの小説として一分の隙もなく完成されています。私の知人だった故・安原顯はよく「松浦はほんとに小説がうめえんだよ」といっていましたが、安さんはこの短篇集をきっと愛したことでしょう。

 しかし、初めから終わりまできわめて精緻に計算され構築されたこの短篇の最後に、本書全体の重要な主題が埋めこまれていることを見逃してはならないでしょう。それは、人生の時間のある瞬間、そしてその瞬間の記憶のなかに、その後の人生のすべてが胚胎され、それが長い歳月のなかで徐々に、ゆっくりと展開され、実現されるのだという、プルーストにも比すべき、人間の時間と記憶に関する神秘的な想念です。

 その想念は、本書所収の「石蹴り」という作品では、「すべての人生の重要事はほんとうはあの十二歳の少年のうちにことごとく微小な種子のかたちで眠っていた」という表白となり、「手摺りを伝って」では、「何でもない日の、何でもない数十秒とか数分とかを、ゆっくりと蘇らせて[…]つぼみの状態で眠っていた何もかもを完全に開花させて、とことん味わい尽くす」ことへの執着として変奏され、この短篇集の通奏低音をかなでています。

 そして、この人間の時間と記憶の神秘への没入は、実在したものの記憶も、実在しなかったものの記憶も、それらを甦らせる夢も、ことごとく本当の現実であり永遠の現在ではないのかという自問自答、いや間違いなくそうなのだという確信を導きます。

 しかし、そうした確信から一転して、自分という人間、さらには人間にかかわるいっさいがこの世から消滅したのちも、太古の昔からいまにいたるまで変わることのない月の光が地上に降りそそぎ(「石蹴り」)、甘くせつない空気に漂う陽光の粒子のひと粒ひと粒の輝きは消えず(「水杙」)、小学生のときにふと感じた無為な時間が、自分の生まれる前にも、自分の死んだのちにも広がっているというさみしい思いが語られます(「薄ぼんやりと、ゆらりと二つ」)。そんな、生命以前、あるいは生命以後の宇宙的孤独の想像がもたらすどこかニヒルな抒情こそ、小説家・松浦寿輝の見出した究極のポエジーであるような気がします。

 そして、この生命の絶えた宇宙的孤独のなかで醸される、虚無的でもあり、郷愁を誘うようでもあるリリシズムは、江戸川乱歩のエッセーのなかに稲垣足穂が発見して絶大な共感を捧げたものです。私見では、この系譜に連なる日本の作家にはもうひとり、水木しげるがいます。私は松浦寿輝をそうした作家たちの仲間に数えることができるかと思うと、なんだかひどくうれしくなってしまうのです。