ビビビ・ビ・バップ

奥泉 光

定価(税別):2,600円

広がり続ける奥泉ワールド

諏訪部浩一

 奥泉光は、さまざまなジャンルを颯爽と渡り歩いてみせる。これはともすれば単なる器用さと受けとられかねないが、そうした才能を磨いて物語にエンターテインメント性を付与するのは、文学が「商売」となった近代以降の小説家にとっては宿命的な戦略というべきだし、この宿命を自覚した最初の一人が奥泉の重要な先行者――エドガー・アラン・ポー――であったのは、もちろん偶然などではあり得ない。小説の発展は面白さの追求と軌を一にしているのであり、そのような意味において、奥泉は現代文学のトップランナーとして小説の可能性を切り拓いてきた。

 小説の可能性を拓く作家は自己の世界を押し広げることができるはずだが、奥泉という作家の場合に特に注目されるのは、それが文字通り「世界」の広がりに通じていることだろう。『モーダルな事象』の結末で「ダジャレおじさん」になったはずの桑潟幸一が、「クワコーもの」の主人公として蘇ったのはその一例である。奥泉にとっての「世界」とは、複数の可能性を同時に包摂するものであり、そこから一つを取り出して「現実」と呼び、他を「虚構」として片付けてしまうわけにはいかないのだ。こうした「虚構」の「片付けられなさ」を、奥泉は創作に携わる者の倫理としてずっと意識し続けてきたように思われるし、そのような作家が本書――ヴァーチャル・リアリティの技術が進んだ二十一世紀末を舞台とした近未来SF――を書くに至ったのは、自然な流れであったのかもしれない。

 ただし、まさにそのような作家にとって、このSF的な設定は「両刃の剣」でもあっただろう。それは「虚構」と「現実」の境界を曖昧化すると同時に、「現実」やら「肉体」やら「人間」の価値があらためて確認される、どうにも近代的な物語を強く招き寄せてしまうからだ。事実、というべきか、『ビビビ・ビ・バップ』のストーリーは、『2001年宇宙の旅』から『魔人探偵脳嚙ネウロ』まで連綿と続く定型に、かなり忠実であると見なし得る。人格を持ったコンピュータは予定調和的に暴走し、「アナログ」なヒロインを「デジタル」な世界に取りこもうとするのだ。

 だが、強調しておかねばならないのは、そうしたバナールな物語を軸にしているにもかかわらず、本書においては「デジタルvs.アナログ」という二項対立が、決して固定化されないことである。これは語り手である「猫」が「ロボット」であるという事実からだけでも確認されるのだが(奥泉の自由闊達な文体は、この語り手――作中の論理に従っていえば、「パターン臭」を極力消さねばならぬ存在――にまことに相応しい)、より重要なのは、「デジタルvs.アナログ」という定型的な図式に囚われているのはコンピュータの側であり、ヒロインの方は一貫して呑気で、場当たり的で、平たくいえば「どっちもあり」と思っていることだろう。つまり、ヒロインが「アナログ人間」なりに「デジタル的な時代」に適応して生きているのに対し、「敵」となるコンピュータは時代錯誤的な、適応を果たせない存在として立ちあらわれるのである。

 このような逆説を見てくると、読者は本書が「ディストピア小説」――「(現在の延長線上にある)未来」に警鐘を鳴らす作品――とは似て非なることに気づかされる。それどころか、本書を「近未来小説」と呼ぶことさえ躊躇したくなるかもしれない。なるほど、作者が「近未来」の世界を丁寧に構築していることに疑いはない。だが、ヴァーチャル・リアリティが生活の一部となっていることはもとより、拡大する経済格差により個々の寿命が大きく異なっていることや、セックスが男女関係の基盤ではなくなっていること、機械の進化により人間の体力が衰えていること、そしてコンピュータがボードゲームで人間を圧倒していること(本書には「大山十五世名人アンドロイド」が登場する)など、どれをとってもむしろ「現在」の問題だといっていい。こうした問題が「問題」ではなくなっているのが本書の近未来社会であり、本書はそのこと(こうした問題が「問題」となっていないこと)を「問題」とはしないのだ。

 おそらく本書が「問題化」しているのは、こうした問題を「問題」にすること自体である。ただひたすら不死を求め、愛する女性を永遠に我が物にしようというコンピュータの二進法的な振る舞いは、まさしく「現在」の問題を(変化を頑なに拒否して)解決しようという硬直したロジックと通底するからだ。このロジックは「近代の論理」と呼んでいいだろうし、そのことはおのれの野心のためにデジタル人格を起動させ操ろうとする人物(「伊達邦彦」と名乗る時代錯誤的な男)が、エディパルな葛藤に苛まれているという設定によっても明らかだろう。コンピュータと戦おうとする人間は、近代の論理――戦争によってすべてを解決してしまおうと思うような「男」の論理――に深く飲みこまれているのである。

 だとすれば、本書が女達の物語であることは必然といわねばならない。「父」を持たないヒロインは、「即興」を旨とするジャズ・ピアニスト木藤桐――通称フォギー。そう、この作者に相応しい「複数性」をともなってはいるが(ヒロインの曾祖母の名は「池永霧子」とされている)、本書は『鳥類学者のファンタジア』の「続編」なのだ。『ファンタジア』は男達の作った近代的な「現実=歴史」の陰に消えた女性のための――いわば「虚構」として抑圧される存在のための――物語であったが、十五年後に刊行された本書は、そうした前作を包摂し、「近代の論理」を相対化する俯瞰的な視座から、壮大な「世界」を提示する。この俯瞰的な視座は、直接的にはSF的な設定がもたらしたものであるわけだが、評者としては、それは「世界」をたゆまず押し広げ続けてきた小説家だからこそ得られたものだといっておきたい。この作家の「世界」がいったいどこまで広がっていくことになるのか、期待は増すばかりだ。