不機嫌な姫とブルックナー団

高原英理

1595円(税込)

ブルックナーの音楽は彼らの生きづらさを肯定するか

矢野利裕

 クラシックに疎い自分は、本書を読んでさっそく、ブルックナーの作品を買って聴いた。ピエール・ブーレーズ指揮による「交響曲第八番(ハース版)」である(それとネットで聴けるものをいくつか)。聴き始めた最初、メロディが変に地味だという印象を抱いた。と思ったら、いきなり仰々しくなった。なにより魅惑的だったのは、その予測のつきにくい展開だった。なかでも第二楽章のスケルツォは、ミニマルなフレーズの反復がとても中毒的に響いた。したがって、作中の「あの八番のさあ、スケルツォのとこ、ドンタタタタ、ドンタタタタ、ドンタタタタ、タ、って何回もやるとこなんか、ちょっと馬鹿みたいなんだけど、もう五倍ぐらい繰り返してほしいような……」という代々木ゆたきの意見には、けっこう共感してしまった。とくに「ドンタタタタ」のあとの「、タ、」の部分が気持ち良かった。不自然な場所でループを切っているような、そういうつんのめった痙攣的な感覚があった。

 本書は、そんなブルックナーを敬愛するブルックナー団と、図書館職員の女性、ゆたきによる物語だ。ブルックナー団とは、ブルックナーオタクの三人(タケ、ユキ、ポン)によって結成された集まりである。ゆたきはブルックナーのコンサートに行ったさい、タケに声をかけられ、ブルックナー団と知り合う。少し卑屈で一般社会と馴染んでいないようなブルックナー団の面々と、一旦は夢である翻訳の仕事を諦め、図書館の仕事も上手くいかないゆたき。どこか生きづらさを抱えているような彼らは、同じく不器用に生きていたブルックナーを通して交流する。ゆたきとブルックナー団との交流の合間に、タケが書いている「ブルックナー伝(未完)」のテキストが挿入される構成になっており、そちらはそちらで自立した作品として読める。とくに、「【第四章】 史上最悪なる我がコンサートの果てに」は、ブルックナーの繊細な痛みが伝わってくるようで、読み応えがあった。

【第四章】で描かれるような、不器用なブルックナーの繊細な痛みが、ゆたき及びブルックナー団の繊細な痛みと重ねられているのは言うまでもない。タケが評伝として描くブルックナーの生きづらさは、そのままブルックナー団の面々の生きづらさと響き合っている。「ブルックナー伝(未完)」に引き込まれていくゆたきにおいても、それは同様だ。このような生きづらさを温かく描くことが、この物語の主題のひとつだろう。だとすれば、それは作者自身の生きづらさでもあるのだろうか。想像するほかない。

 ブルックナー作品をいくつか聴いたいま、見事だと思うのは、ブルックナーの音楽それ自体がブルックナー団の振る舞いと呼応している、ということだ。地味かと思えば仰々しい、痙攣的でひとりよがりな反復。これらは、ブルックナー団の振る舞いそのものではないか。必然、ブルックナーの音楽それ自体は、物語の主題とも呼応してくる。音楽を言葉で表現するのは難しいとは、誰もが思うことだろう。ブルックナーの音楽をいわゆるオタ(ヲタ)というかたちで表現するアイデアは、それだけで見事だと思った。したがって、ブルックナーの音楽とタケを同時に語る、次のような場面が大事だったりする。

 自分のやりたいことだけ続けようとするみたいな、朴念仁の音楽だ。で、それを好む者たちというのもメロディの美しさより爆発的な巨大音の繰り返しばかり好きな向きが多いようだし、なにやら不器用で野暮ったい行動様式がよく見られる。
 目の前の彼はその典型だった。こちらに目を合わせず、締まらない表情でぼそぼそと話す。

 物語において、ブルックナーの音楽は、そのまま生きづらさの表象である。だからこそ、ブルックナーの音楽を批判し続けた批評家のハンスリックは、ブルックナー団、あるいはゆたきにとって、いっそう許しがたい敵となる。タケは、「うまくいってる人たちって、マイナーな人間のこと、まるでわかってない。そういうとこがハンスリック団的だなって思うんだ」と自分の経験に重ねつつ、ハンスリック批判をおこなう。しかし一方で、このハンスリックの存在こそ重要だ。短編『エドゥアルト・ハンスリックの憂鬱』を翻訳したゆたきが、「こうやってハンスリック側から見てみると、こっちにも理があるという気にはなる」と言うように、ハンスリックは物語において、ブルックナー及びブルックナーに共感する連中を相対化する。

 ここで重要なことは、批評家のハンスリックが、「音楽が音楽だけで鑑賞されるべきとする「純粋音楽」」を志向していることだ。そこには、作曲家の人格や生きかたは入る余地がない。だとすればハンスリックは、この物語全体に対する批判者でもある。ハンスリックの批判は、ブルックナーの音楽にブルックナー自身の生きづらさを重ねるような態度に向けられている。もちろん、そこにブルックナーオタクの生きづらさや作者の生きづらさを重ねる、つまりは俺のような読解態度にも。

『不機嫌な姫とブルックナー団』という物語はたしかに、ブルックナーとその音楽を通して、生きづらさを抱いている人たちを温かく描いている。しかし一方で、そのような共感の輪を突き放してもいる。ハンスリックの登場は、音楽の「純粋」性の表明である。その「純粋」性が、第八番三楽章を聴くゆたきに「崇高な別世界の扉」を感じさせるのだ。では、この物語において、音楽の「純粋」な自立性とはなんだろうか。それはおそらく、楽譜である。エクリチュールとしての楽譜こそが、この物語において、音楽の「純粋」性を示している。最後の最後、ブルックナーの音楽は、ブルックナーの優柔不断な性格と切り離される。ブルックナーいわく、「完全な楽譜は、後世の聴衆のためにある」。

 本作最後の一文は、小説家でもあり批評家でもある作者が、後世の読者のために完全な文章を書こうとする、そういう決意として読んだ。もちろん、想像するほかない。