オライオン飛行

髙樹のぶ子

1760円(税込)

飛行機はどこを飛ぶのか

高橋源一郎

 明治44年6月、石川啄木は短期間のうちに、いくつもの詩を生み出した。そのどれもが傑作となったが、中でも「はてしなき議論の後」や「ココアのひと匙」が名高い。啄木はこれらの作品を詩集『呼子と口笛』として出版する計画だった。だが、一年もたたぬうちに結核で亡くなったため、その計画は頓挫することになる。この一連の詩群の中で、わたしがもっとも好むのは「飛行機」と題された短い詩である。これが書かれたのは、史上初のライト兄弟の有人動力飛行から僅か8年の後だった。

「飛行機
   一九一一・六・二七 TOKYO

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。」

 この詩には、現代に生きるわたしたちにはわからない感覚がある。それは「飛行機」に対する強い憧憬だ。「飛ぶ」ことは、地上で生きねばならないものたちにとって、見果てぬ夢だったのである。その感覚を、わたしたちが失って久しい。

 啄木の「飛行機」から25年後の1936年、フランスから日本へ「冒険飛行」を敢行した飛行家、アンドレ・ジャピーの飛行機が北九州に墜落した。

 重傷をおったジャピーは九州帝国大学附属病院に収容され治療とリハビリをうける。そして、そんなジャピーに付き添うことになった18歳の看護師・桐谷久美子と恋におちるのである。だが、ふたりの恋は困難な道を歩むことになった。ことばの壁、急速に迫ってくる戦雲の影。飛行機は、冒険の道具であり、それ以上に国家の命運を握る決定的な武器でもあった。やがて、久美子はジャピーの子を妊娠する。だが、ふたりは日本で結ばれることはできなかった。ジャピーはフランスに去り、久美子はひとり残される。そして、ふたりの運命を決する「事件」が、その後起こった。

 髙樹のぶ子の『オライオン飛行』は、ジャピーの遭難から80年後の現代の物語だ。久美子の遠い子孫、里山あやめは26歳。その「若さで恋愛や結婚という人並みの幸せを諦めている」のは、体に少し障害があるからだ。母親は16歳で亡くなり、父親は再婚した。孤独に生きるあやめの手元には、おそらく、ジャピーから久美子を経由し、さまざまな人の手を通過し、どうやら寿命も尽きたらしい古い懐中時計がある。あやめにとって、「過去」とは、80年前の、生き生きしたジャピーと久美子の写真とその止まってしまった時計だけだ。ある日、ふと思いついたあやめは、妻を亡くした時計店主・鉢嶺一良のもとに、時計を持ち込む。修理してもらうためだ。だが、それは単なる古い時計ではなく、「想像を超える技術」によって創られたものだった。そして、その時計には、大きな秘密が隠されていた。80年の時間を経て、孤独なふたりの男女の手によって、その秘密が解きあかされる日がついに訪れたのである。

「どうなっているんだこいつ。……中略……。わずかに浮き出しているトサカに触れてみた。窪む。貼り付けていた細工が取れたかとはっとなった。けれど指を離せば元のトサカに戻る。わずかに窪むだけだ。これは仕掛けかも知れないと、何度か押しては離してみたが裏蓋は開かない。指の腹に全神経を集めて、押せば引っ込む場所は他に無いかと探していくと、ニワトリの目が怪しい。一ミリにも満たない目を針のようなドライバーの先端で押すと、確かに窪んだ。それでも蓋は開かなかったが、神の領域に踏み込むつもりで息を殺し、トサカと目の両方を一緒に押すと、上部からかすかな音が漏れて数ミリ開いた。
 一良の額から汗が流れ落ちる。直径が五センチにも満たない時計の裏蓋の開閉に、こんな細工を施す技術があるとは」

 初めて、その古い時計に挑む一良の背中越しに、わたしたち読者もまた、覗きこむ。そして、かつて味わったことのない、不思議な緊張を感じるのだ。

「そこ」にあるのは、ただの古い時計ではない。深い意図と技術によって「過去」を封印したものだ。いや、「裏蓋」が開けられる日を待っていた「過去」そのものなのである。

 忍耐と技術と情熱によって、裏蓋を開けられた時計は、さらに、もう一度、現在を生きるものたちによって「再生」され、また時を刻み始める。そのとき、封印されていた「過去」が甦ることを、わたしたちは知るのである。

 わたしたち読者も、この小説の登場人物たちと同じように「秘密」を知りたいと願っている。わたしたちが知りたい「秘密」とは、生きることの「秘密」である。そして、その「秘密」、性愛も歴史も個人の喜びや慟哭も、いや、未知の世界に向かって「飛び立ちたい」という焼けるような願望もすべて、小説という「古い時計」の中に「想像を超える技術」によって封印されていて、読者の挑戦を待ちつづけている。

 この端正な作品の中で、突然、作者の声が噴出する箇所がある。精密な工芸品でもある小説の作り手は、そこで、あえて読者と「直接取引」を試みる。まるで、恋人からの官能的な告白のような言葉に、この作品のもう一つの秘密があるように、わたしには思えた。