ホサナ

町田 康

定価(税別):2200円

理と念

上田岳弘

 

 ホサナ、耳慣れない単語が音をなして脳内に響く。そういった場合、すみやかに手近な辞書をひいたり、電子端末で検索してみるという方も多いだろう。僕の場合は、本作のタイトルを目にした時に持っていたはずのスマートフォンを使うこともせず、大長編の四分の三くらい読み進んだ頃に、Wikipediaのページを開いた。ヘブライ語で、【「どうか、救ってください」を意味するホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形ホーシャ・ナー(hosha na)のギリシャ語音写に由来し、キリスト教において元来の意味が失われて歓呼の叫び、】この辺りで、以前聴いたフォーレのレクイエムを思い出した。天上的ファンファーレの後の、歓呼の叫び、いや、元々の意味である「救い」を求めた懇願。続いて「救い」、これをWikipediaで検索してみる。完全該当する項目はなく、「救済」のページに飛ばされる。【ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。】
 好ましくない状態、という言葉の裏を返せば、好ましい状態が存在すると信じなければならないことになる。しかし、好ましい、とはなんだろう? 確かに、宗教を持ち出せば説明可能かもしれない。戒律や教義が、信仰心が、志すべき状態をわかりやすく示している。各々の宗教で好ましい状態に違いはあれど、少なくとも「ある」とはされていて、その境地に達して留まり続ければ、達成ボーナスとして信者は「救済」されることになる。
 言うまでもなく町田康氏は、歴史的な人工的「救済」に一定の評価を与えつつも、自身でははなから信じるつもりのない様子だ。小説の前半、語り手はいろんな物事を「なかった」ことにできないだろうか? としばしば考え込む。今回の語り手は、他者と交流せずとも生きていける立場に置かれている。親から豊かに生活していけるだけの資産を相続し、蒸しずしを食し、白ワインを飲み、飼い犬を撫でながら生きていくことができる。人間は成長していく過程で様々な社会からの要請に応じなければならなくなるが、犬や幼児を始めとした幼い存在は、本人の身に危険が及ばない限りは自由気ままにやっていればよい。そのような無辜の存在を慈しむことは自然的なコミュニケーションであり、語り手はある意味、楽園の住人であると言える。
 それで終わればいいのだが、残念ながら外の世界を「ない」ことにはできない。である以上、コミュニケーションの機会が発生することもある。「犬の飼い主」同士としてならば正しく安全なコミュニケーションを図りやすいと考えたのか、主人公は犬同伴のバーベキューに参加する。「救済」と無縁であったとしても、調和の保たれた楽園の住人であり続けるために、誰に言われるまでもなく、是非とも「正しいバーベキュー」をなして乗り越えたいところだ。
 しかし、見ず知らずのイヌ友同士のバーベキューなんて最もコミュニケーション能力が問われる部類のイベントであることは、みんな知ってる、と読者は序盤から心配して見守ることになる。冷静なようで愚痴っぽい語り口は、読者の予想をはるかに上回り、参加者の、他人のことを穢れとみなし遠ざける女、去勢されていない犬を連れる語り手を野蛮人とみる意識の高い夫婦、権威を誇らんとする幹事の女とその舎弟、等々を軽妙かつ滑稽に描写する。バーべキューの常として、参加者それぞれの思いが念となって渦巻き、大惨事となって終わる。災いの原因も結果も、バーベキューへの参加に関連しない所で発生するものではない。語り手の完璧な世界が外から壊されるのではなく、内側から崩れるのでもなく、ぐるぐるとかき混ぜられて混沌が現出する。
 遠方から着々と近づいて来る、まるで光の柱のような栄光。それは空間的歴史的矛盾が幾重にも重なって形成された、人々を原初の状態へと滅するものでもあって、そんな風に全体と一つになるのは「気持ちいい」かもしれないが、しかしそんなものを「救済」と呼ばねばならないのなら、最初から「ない」こととぜんたい何が違うのか。このいみじきみじめさに満たされた生の意味はなんなのか? どうか、救ってください(ホサナ)。知っている言葉で思わず祈ってみるが、祈る方角も姿勢も定まらない。
「ほんとうのこと」は存在しないか、もしくは変容を続けるものであるらしい。これはまがりなりにも小説を書き、そして町田さんの小説を読んできた僕の経験則であり、実感でもある。しかし、僕が認知できている世界の外枠に、何かが「ある」のも確かだ。でなければ、このみじめな生すら僕には与えられていないのだから。全容を把握できない故に、理として飲み込み、自らの生が押しつぶされないように念じる。理と念が組み合わさって、各個人の世界が形成される。当然、各々の理念には違いがあるから、矛盾や対立が暴力的に噴き出すことも多い。
 であれば、理念など持ちえない、幼い存在に身をやつせばいいのだろうか? 抜け作もひょっとこも犬も、「気持ちいい」ことを求めるが、きっと「どうか、救ってください(ホサナ)」とは念じない。疲れきっている時には、理念など捨ててしまいたくなる。それでも、人はベストを尽くす。混沌の世界において、僕だったら理の内部に走るコードを解析する方向で頑張るかもしれない。著者の場合は全く異なり、究極には生死を問題とせず、彼にとっての「正しさ」、と言葉にしてしまうと既に正しくなくなってしまうような種類の「正しさ」を貫いて世界を束ねようとする。苛烈極まる苦闘である。どうか、救ってください(ホサナ)。

 ホサナ、耳慣れない単語が音をなして脳内に響く。そういった場合、すみやかに手近な辞書をひいたり、電子端末で検索してみるという方も多いだろう。僕の場合は、本作のタイトルを目にした時に持っていたはずのスマートフォンを使うこともせず、大長編の四分の三くらい読み進んだ頃に、Wikipediaのページを開いた。ヘブライ語で、【「どうか、救ってください」を意味するホーシーアー・ナー(hoshia na)の短縮形ホーシャ・ナー(hosha na)のギリシャ語音写に由来し、キリスト教において元来の意味が失われて歓呼の叫び、】この辺りで、以前聴いたフォーレのレクイエムを思い出した。天上的ファンファーレの後の、歓呼の叫び、いや、元々の意味である「救い」を求めた懇願。続いて「救い」、これをWikipediaで検索してみる。完全該当する項目はなく、「救済」のページに飛ばされる。【ある対象にとって、好ましくない状態を改善して(脱して)、望ましい状態へと変える(達する)ことを意味する。宗教的な救済は、現世における悲惨な状態が宗教に帰依することで解消または改善されることも意味する。】

 好ましくない状態、という言葉の裏を返せば、好ましい状態が存在すると信じなければならないことになる。しかし、好ましい、とはなんだろう? 確かに、宗教を持ち出せば説明可能かもしれない。戒律や教義が、信仰心が、志すべき状態をわかりやすく示している。各々の宗教で好ましい状態に違いはあれど、少なくとも「ある」とはされていて、その境地に達して留まり続ければ、達成ボーナスとして信者は「救済」されることになる。

 言うまでもなく町田康氏は、歴史的な人工的「救済」に一定の評価を与えつつも、自身でははなから信じるつもりのない様子だ。小説の前半、語り手はいろんな物事を「なかった」ことにできないだろうか? としばしば考え込む。今回の語り手は、他者と交流せずとも生きていける立場に置かれている。親から豊かに生活していけるだけの資産を相続し、蒸しずしを食し、白ワインを飲み、飼い犬を撫でながら生きていくことができる。人間は成長していく過程で様々な社会からの要請に応じなければならなくなるが、犬や幼児を始めとした幼い存在は、本人の身に危険が及ばない限りは自由気ままにやっていればよい。そのような無辜の存在を慈しむことは自然的なコミュニケーションであり、語り手はある意味、楽園の住人であると言える。

 それで終わればいいのだが、残念ながら外の世界を「ない」ことにはできない。である以上、コミュニケーションの機会が発生することもある。「犬の飼い主」同士としてならば正しく安全なコミュニケーションを図りやすいと考えたのか、主人公は犬同伴のバーベキューに参加する。「救済」と無縁であったとしても、調和の保たれた楽園の住人であり続けるために、誰に言われるまでもなく、是非とも「正しいバーベキュー」をなして乗り越えたいところだ。

 しかし、見ず知らずのイヌ友同士のバーベキューなんて最もコミュニケーション能力が問われる部類のイベントであることは、みんな知ってる、と読者は序盤から心配して見守ることになる。冷静なようで愚痴っぽい語り口は、読者の予想をはるかに上回り、参加者の、他人のことを穢れとみなし遠ざける女、去勢されていない犬を連れる語り手を野蛮人とみる意識の高い夫婦、権威を誇らんとする幹事の女とその舎弟、等々を軽妙かつ滑稽に描写する。バーべキューの常として、参加者それぞれの思いが念となって渦巻き、大惨事となって終わる。災いの原因も結果も、バーベキューへの参加に関連しない所で発生するものではない。語り手の完璧な世界が外から壊されるのではなく、内側から崩れるのでもなく、ぐるぐるとかき混ぜられて混沌が現出する。

 遠方から着々と近づいて来る、まるで光の柱のような栄光。それは空間的歴史的矛盾が幾重にも重なって形成された、人々を原初の状態へと滅するものでもあって、そんな風に全体と一つになるのは「気持ちいい」かもしれないが、しかしそんなものを「救済」と呼ばねばならないのなら、最初から「ない」こととぜんたい何が違うのか。このいみじきみじめさに満たされた生の意味はなんなのか? どうか、救ってください(ホサナ)。知っている言葉で思わず祈ってみるが、祈る方角も姿勢も定まらない。

「ほんとうのこと」は存在しないか、もしくは変容を続けるものであるらしい。これはまがりなりにも小説を書き、そして町田さんの小説を読んできた僕の経験則であり、実感でもある。しかし、僕が認知できている世界の外枠に、何かが「ある」のも確かだ。でなければ、このみじめな生すら僕には与えられていないのだから。全容を把握できない故に、理として飲み込み、自らの生が押しつぶされないように念じる。理と念が組み合わさって、各個人の世界が形成される。当然、各々の理念には違いがあるから、矛盾や対立が暴力的に噴き出すことも多い。

 であれば、理念など持ちえない、幼い存在に身をやつせばいいのだろうか? 抜け作もひょっとこも犬も、「気持ちいい」ことを求めるが、きっと「どうか、救ってください(ホサナ)」とは念じない。疲れきっている時には、理念など捨ててしまいたくなる。それでも、人はベストを尽くす。混沌の世界において、僕だったら理の内部に走るコードを解析する方向で頑張るかもしれない。著者の場合は全く異なり、究極には生死を問題とせず、彼にとっての「正しさ」、と言葉にしてしまうと既に正しくなくなってしまうような種類の「正しさ」を貫いて世界を束ねようとする。苛烈極まる苦闘である。どうか、救ってください(ホサナ)。