鳥獣戯画

磯﨑憲一郎

定価(税込):2000円

「小説」は何か

金井美恵子

 

ひとは書くように読み、
読むように書く。
秋山基夫『文学史の人々』
 イタリアの伯爵夫人でもないし若くもない読者としては、読んでいる小説(それも、一日のうち朝、昼、晩で読む小説や詩集や本や雑誌や新聞が異なるのだ)がスタンダールのものではないのだから、当然、それが時代を映す鏡などとは思わないし、もちろん、徹夜などしてまで読むことはないし、「注意力散漫」という小学校の時の通信簿(通知簿とも言っていたような気がする)に書かれた妙な言葉をつい思い出してしまうのだが、一冊の本は、たとえそれがどういった分類に属するものであれ、読者の集中力よりは記憶の拡散をもたらさずにはおかないし、まして、今私が、「書評」という小さな枠組の中で書こうとしている(と言うことは、ある意味で読みつつある)磯﨑憲一郎の小説は、既視感と既読感を呼びおこさずにはおかない。そもそも、かつて読んだことがあるという、はっきりとした感覚と、どこかで読んだはずだという曖昧な記憶を、甘美な共感であるか、苛立ちやもどかしさや、目まいのするむず痒さであるかはともかく、そうやって揺動かされることのない読書など、大した意味はないのだ。
 とは言え、むろん、読書(それも、たかだか小説の?)によって揺動かされるものなど、たかが知れてはいないか。
 前作の『電車道』にも、ほとんど個性というほどのものを感じさせないのだが、「美人」であることが重要な要素である女性として「女優」が登場していたのだったが、『鳥獣戯画』にも、時を隔てて「赤の他人の瓜二つ」なのか、そっくりな容姿(頭の後ろで髪を束ねているので、より強調される「卵形の顔」、「細く長い手足」のすらりとした長身、大きくて「目尻だけがかすかに吊り上がっ」た眼、「肉感的な桃色の唇」)を持つ「女優」は、生れた時代のせいで出演した映画のタイプこそ違え(一方は、血を吸う巨大蛭の怪物の登場する珍品SF・ホラー、一方は低予算の「一風変わっているといえば変わっている」、まあ、アート系と言えそうな、多分、普通に凡庸な野心作)、「美人」と「女優」という言葉によって、二つの瓜であることが、「読者」に告げられる。私はたまたまつい先日再見することになったバスター・キートンの最晩年作、トロッコでカナダの大陸横断鉄道をひたすら走りつづけて東海岸から西海岸に到達してしまう『レール・ロッダー』を見て、線路とはまさしく映画フイルムのことなのだと思ったばかりなので、磯﨑憲一郎の『電車道』に映画が登場することも当然なのだと思いあたるのだった。『鳥獣戯画』の主な語り手である二十八年働いた会社を辞めた芥川賞作家(ノーベル賞でももらわないかぎり、新聞の訃報欄に書かれるまでつきまとう肩書きであり一方、確実かつ大事な数字のはずの会社員生活の年数を、「私」は「一年数え間違えている!」のだが)と京都を旅することになる女優が、石水院の主室のガラスケース入り明恵上人遺愛の木彫りの子犬を見ていた時、「私」は「紺と白の縞のセーターの肩が弱い光を発したような気」がし、彼女は「その光を肩からもぎ取り」、手のひらに乗せて「私」に見せる。
「タマムシ! この七色に輝く昆虫が実在することを、私は二十八年もの長い間忘れてしまっていた!」
 私(今、これを書いている私である)は、この何週間か並行して読んでいた別の小説と詩集と随筆の中で、鮮烈な狂気のように美女とタマムシが登場したはずなのに、それが誰の文章の中だったのか、咄嗟に思い出せずに、ぼんやりしたイメージと言葉がまじりあう。たまたま必要もあって並行して読んでいた泉鏡花の文章の中にあったのだ。美しい二人の夫人の持つ涼傘の中に飛びこんできて「それはそれは気味の悪いほど美しい」と驚嘆させ、それを直接見たわけではなく、見たことを告げる女たちの言葉をもとに鏡花が執拗に描写する玉虫は、描写することは可能でも、その意味をわかりやすく説明することなど出来ない「小説」に似ているかもしれない。
 それでは、いくつものエピソードが、かすかなつながりと関連をほのめかしつつ、並行して語られる構成を持つこの『鳥獣戯画』という小説のエピソードの一つに、語り手(先述の芥川賞作家と、この語り手は同一ではない)が美人の女優について「不思議なのはそういう多忙さの中でも、彼女が規則的な生活と一人だけの時間を守り続けられたことだ」と書き、その規則的な生活の情景として「夜は自室で小説を読んだり、CDを聴いたりして過ごした」とあるのだが、彼女が読んだ「小説」は何か?
 女優と「私」の出あいは、高校時代の女友達と再会すべく待ちあわせた喫茶店で、彼女が「先日のテレビ番組、拝見しました」と唐突ななれなれしさで話しかけるという夢の速度の僥倖のようにはじまるとは言っても、彼女が自室で読んでいた「小説」が「私」の書いたものかどうかはわからない。
 いつもの習慣で土曜の朝刊を開くと、売れない芸人だった頃、吉祥寺の電気のブレーカーがすぐに落ちる狭い寒い貧しい部屋で毛布にくるまり、かじかむ指で「小説」のページをめくった、と(芥川賞作家・お笑い芸人)と末尾に記された文章が載っていたのだったが、このかじかんだ指でページをめくられた「小説」が何かについては、私たち読者は、おそらく、あれ、というイメージを持つことが出来るのだが、しかし、『鳥獣戯画』の女優が、「読んだりする」小説は、それは「何」なのか、という奇妙な違和感を引きおこすので、この小説の読者である私は、つい、たとえば『赤の他人の瓜二つ』の、「妹」の書いた「活字になった自分の小説」、「まるで見ず知らずの他人が書いたかのように面白」い「小説」について書かれた部分から『赤の他人の瓜二つ』という小説を読みかえしてしまうことになる。

     ひとは書くように読み、

     読むように書く。

         秋山基夫『文学史の人々』


 イタリアの伯爵夫人でもないし若くもない読者としては、読んでいる小説(それも、一日のうち朝、昼、晩で読む小説や詩集や本や雑誌や新聞が異なるのだ)がスタンダールのものではないのだから、当然、それが時代を映す鏡などとは思わないし、もちろん、徹夜などしてまで読むことはないし、「注意力散漫」という小学校の時の通信簿(通知簿とも言っていたような気がする)に書かれた妙な言葉をつい思い出してしまうのだが、一冊の本は、たとえそれがどういった分類に属するものであれ、読者の集中力よりは記憶の拡散をもたらさずにはおかないし、まして、今私が、「書評」という小さな枠組の中で書こうとしている(と言うことは、ある意味で読みつつある)磯﨑憲一郎の小説は、既視感と既読感を呼びおこさずにはおかない。そもそも、かつて読んだことがあるという、はっきりとした感覚と、どこかで読んだはずだという曖昧な記憶を、甘美な共感であるか、苛立ちやもどかしさや、目まいのするむず痒さであるかはともかく、そうやって揺動かされることのない読書など、大した意味はないのだ。

 とは言え、むろん、読書(それも、たかだか小説の?)によって揺動かされるものなど、たかが知れてはいないか。

 前作の『電車道』にも、ほとんど個性というほどのものを感じさせないのだが、「美人」であることが重要な要素である女性として「女優」が登場していたのだったが、『鳥獣戯画』にも、時を隔てて「赤の他人の瓜二つ」なのか、そっくりな容姿(頭の後ろで髪を束ねているので、より強調される「卵形の顔」、「細く長い手足」のすらりとした長身、大きくて「目尻だけがかすかに吊り上がっ」た眼、「肉感的な桃色の唇」)を持つ「女優」は、生れた時代のせいで出演した映画のタイプこそ違え(一方は、血を吸う巨大蛭の怪物の登場する珍品SF・ホラー、一方は低予算の「一風変わっているといえば変わっている」、まあ、アート系と言えそうな、多分、普通に凡庸な野心作)、「美人」と「女優」という言葉によって、二つの瓜であることが、「読者」に告げられる。私はたまたまつい先日再見することになったバスター・キートンの最晩年作、トロッコでカナダの大陸横断鉄道をひたすら走りつづけて東海岸から西海岸に到達してしまう『レール・ロッダー』を見て、線路とはまさしく映画フイルムのことなのだと思ったばかりなので、磯﨑憲一郎の『電車道』に映画が登場することも当然なのだと思いあたるのだった。『鳥獣戯画』の主な語り手である二十八年働いた会社を辞めた芥川賞作家(ノーベル賞でももらわないかぎり、新聞の訃報欄に書かれるまでつきまとう肩書きであり一方、確実かつ大事な数字のはずの会社員生活の年数を、「私」は「一年数え間違えている!」のだが)と京都を旅することになる女優が、石水院の主室のガラスケース入り明恵上人遺愛の木彫りの子犬を見ていた時、「私」は「紺と白の縞のセーターの肩が弱い光を発したような気」がし、彼女は「その光を肩からもぎ取り」、手のひらに乗せて「私」に見せる。

「タマムシ! この七色に輝く昆虫が実在することを、私は二十八年もの長い間忘れてしまっていた!」

 私(今、これを書いている私である)は、この何週間か並行して読んでいた別の小説と詩集と随筆の中で、鮮烈な狂気のように美女とタマムシが登場したはずなのに、それが誰の文章の中だったのか、咄嗟に思い出せずに、ぼんやりしたイメージと言葉がまじりあう。たまたま必要もあって並行して読んでいた泉鏡花の文章の中にあったのだ。美しい二人の夫人の持つ涼傘の中に飛びこんできて「それはそれは気味の悪いほど美しい」と驚嘆させ、それを直接見たわけではなく、見たことを告げる女たちの言葉をもとに鏡花が執拗に描写する玉虫は、描写することは可能でも、その意味をわかりやすく説明することなど出来ない「小説」に似ているかもしれない。

 それでは、いくつものエピソードが、かすかなつながりと関連をほのめかしつつ、並行して語られる構成を持つこの『鳥獣戯画』という小説のエピソードの一つに、語り手(先述の芥川賞作家と、この語り手は同一ではない)が美人の女優について「不思議なのはそういう多忙さの中でも、彼女が規則的な生活と一人だけの時間を守り続けられたことだ」と書き、その規則的な生活の情景として「夜は自室で小説を読んだり、CDを聴いたりして過ごした」とあるのだが、彼女が読んだ「小説」は何か?

 女優と「私」の出あいは、高校時代の女友達と再会すべく待ちあわせた喫茶店で、彼女が「先日のテレビ番組、拝見しました」と唐突ななれなれしさで話しかけるという夢の速度の僥倖のようにはじまるとは言っても、彼女が自室で読んでいた「小説」が「私」の書いたものかどうかはわからない。

 いつもの習慣で土曜の朝刊を開くと、売れない芸人だった頃、吉祥寺の電気のブレーカーがすぐに落ちる狭い寒い貧しい部屋で毛布にくるまり、かじかむ指で「小説」のページをめくった、と(芥川賞作家・お笑い芸人)と末尾に記された文章が載っていたのだったが、このかじかんだ指でページをめくられた「小説」が何かについては、私たち読者は、おそらく、あれ、というイメージを持つことが出来るのだが、しかし、『鳥獣戯画』の女優が、「読んだりする」小説は、それは「何」なのか、という奇妙な違和感を引きおこすので、この小説の読者である私は、つい、たとえば『赤の他人の瓜二つ』の、「妹」の書いた「活字になった自分の小説」、「まるで見ず知らずの他人が書いたかのように面白」い「小説」について書かれた部分から『赤の他人の瓜二つ』という小説を読みかえしてしまうことになる。