九十八歳になった私

橋本 治

定価(税別):1600円

「橋本治」の「力業」

内田 樹

 

『九十八歳になった私』は「私」の目覚めの場面から始まる。これは文中でも示唆されているようにカフカの『変身』を「本歌」として踏まえている(のだと思う)。
「昔のSF映画で、ロボットが起動させられると、まずザーッという乱れた白黒画面が現れて、その後に外側の風景画像が映るようになっていた。ロボットはそういう風に目を開けていたが、今にして思えばあれはリアルだ。
(ああ、くたびれた)
 目が覚めて、しばらくはなにも分からない。なにかに気がついて、『なにに気がついたんだ?』と思って、やっと、『自分は今日もまた生きている』ということに、気づいたんだということに気づく。」
 冒頭の数行で橋本治の作家的技巧はいきなりトップギヤに入る。
 物語は「昔のSF映画」の「ロボット」の主観映像から始まる。読者は「人間ならざるもの」のさらに「主観的」な感覚に同期することを物語開始の1行目から要求されるわけである。サンドストームと「外の風景」だけだから想像することがそれほど難しいものではない。とはいえ、それは「ロボットの主観映像」である。読者はそれを思い描こうとするときに、日常的なおのれの身体感覚から二段階引き離されることになる。それはまず他人の主観映像であり、加えてその「他人」は人間ではない。しかし、そこを暫定的な立ち位置としなければ、物語を先に読み進むことができない。しかたなく読者はとりあえず「ロボットの主観映像」に同期してから先を読むことになる。
 すると「今にして思えばあれはリアルだ」と誰かが言う。このコメントは明らかに読者に向けて、その同意を求めて発せられている。誰かが読者と同じものを見ていて、「ね、そう思わない?」と肘でつついて同意を促しているのである。読者はその「自分宛てのシグナル」を受信して少しほっとする。というのは、「昔のSF映画」の記憶を語り手と一緒に脳内再生している読者は、この時、語り手の傍に、物語世界の証人として、すでに座席を指定されているからである。
 そして、次に丸かっこにはいった(ああ、くたびれた)でせっかく落ち着いた「指定席」からまた違う物語水準に読者は拉致される。丸かっこに入った文は「内的独白」であるということは読み進めばすぐにわかるのだけれど、それでも、物語が始まってからわずか4行で、読者は自分の現実から二段階引き離され、ついで同意を求められ、それから顔に息のかかるような至近距離から橋本治の身体的愁訴を聴かされる。読者はもう「そこ」から抜け出すことができない。こういうのを「力業(tour de force)」と言うのである。
 物語は「九十八歳になった橋本治」の独白として進む。彼の思考は身体的な不調のせいで繰り返し途絶する。クリストファー・ノーランの映画『メメント』は10分間しか記憶が持続しない主人公が経験する世界を主観的に描いた作品だが、それに少し似ている。「橋本治」は何かをしようとするのだが、それが実現するまでに(起き上がったり、杖につかまったりするのに)時間がかかるので、しばしば途中で自分が何をしようとしていたのか忘れてしまう。
 実存主義者はその昔「私が何ものであるかは、私が何を思ったかではなく、何を成し遂げたかによって決まる」ということを主張していた。その理説に即して言えば、「橋本治」は意志と行動の間のタイムラグがあり過ぎて、ほとんどの行為について、「やろうと思ったけれど、途中で自分が何をする気だったか忘れた」「なんか、どうでもよくなった」ので、実存主義的には何ものでもないことになる。でも、彼の「実存主義的な無」は無数の言葉によって埋め尽くされる。「やだな」「ああ、疲れた」「どうでもいいや」「知らねェけど」「なんだっけ」「だめだ。ふらふらする」「あーあ、懶い」「まだ眠い」。
 これらの「脱力」系の感想をエネルギー源にして、「九十八歳の橋本治」は思考する。そして、その傍が読者の「指定席」である以上、読者もそこにいるしかない。「橋本治」と一緒に眠り、一緒によろよろと歩き、一緒に転び、一緒に「ういろう」を喉に詰まらせ、一緒に回想するしかない。
 老人は論理的思考力の「肺活量」が少ない。少し面倒な話になると「もう、どうでもいいや」という脱力感によって思考することを停止してしまう。でも、無意味なことにこだわりだすと異常な記憶力を発揮して、どこまでも細部に分け入る。
「はかま満緒がパーソナリティをやってるラジオ番組にゲストで呼ばれた時、『なにかリクエストを』と言われて、『美空ひばりの「菊五郎格子」』と答えた。はかま満緒は、掛かった曲を聴いて、『この頃の美空ひばりは一番いいね』としみじみ言ったので、私は『この人はいい人なのだな』と思った。
(しかし、はかま満緒って誰だ? この時代の美空ひばりの曲は、なんでもかんでも『菊五郎格子』だな)
『神田明神スチャラカチャン』の後は『チャンチキおかめの笛太鼓』なのだ。ああ、いい時代だった。
 しみじみといい時代だよすちゃらかちゃん」
 というふうに延々と続くのである。こういうのが「たまらん」という人にとっては極楽である。とりあえず、私にとっては極楽であった。たぶん、『妖星ゴラス』や「『アキラ』に出て来たミヤコ様」や「ヨーゼフK」のことを知らない読者も、誰も知らない固有名詞を連発する老人の饒舌にある種のグルーヴを感じることは止められないだろう。
 というところで紙数が尽きた。私が一番笑ったのは、「橋本治全集」を編みたいと言ってやってきた「メロンの娘」が選んだ「橋本治の三冊」が『アストロモモンガ』と『恋するももんが』と『シネマほらセット』だったというところであった。橋本治自身も「さすがにこの三冊だけはいかなる批評家であってもその文学史的意義について語る言葉を持つまい」と自負していることを知って深く得心したのである。

『九十八歳になった私』は「私」の目覚めの場面から始まる。これは文中でも示唆されているようにカフカの『変身』を「本歌」として踏まえている(のだと思う)。


「昔のSF映画で、ロボットが起動させられると、まずザーッという乱れた白黒画面が現れて、その後に外側の風景画像が映るようになっていた。ロボットはそういう風に目を開けていたが、今にして思えばあれはリアルだ。(ああ、くたびれた) 目が覚めて、しばらくはなにも分からない。なにかに気がついて、『なにに気がついたんだ?』と思って、やっと、『自分は今日もまた生きている』ということに、気づいたんだということに気づく。」


 冒頭の数行で橋本治の作家的技巧はいきなりトップギヤに入る。

 物語は「昔のSF映画」の「ロボット」の主観映像から始まる。読者は「人間ならざるもの」のさらに「主観的」な感覚に同期することを物語開始の1行目から要求されるわけである。サンドストームと「外の風景」だけだから想像することがそれほど難しいものではない。とはいえ、それは「ロボットの主観映像」である。読者はそれを思い描こうとするときに、日常的なおのれの身体感覚から二段階引き離されることになる。それはまず他人の主観映像であり、加えてその「他人」は人間ではない。しかし、そこを暫定的な立ち位置としなければ、物語を先に読み進むことができない。しかたなく読者はとりあえず「ロボットの主観映像」に同期してから先を読むことになる。

 すると「今にして思えばあれはリアルだ」と誰かが言う。このコメントは明らかに読者に向けて、その同意を求めて発せられている。誰かが読者と同じものを見ていて、「ね、そう思わない?」と肘でつついて同意を促しているのである。読者はその「自分宛てのシグナル」を受信して少しほっとする。というのは、「昔のSF映画」の記憶を語り手と一緒に脳内再生している読者は、この時、語り手の傍に、物語世界の証人として、すでに座席を指定されているからである。

 そして、次に丸かっこにはいった(ああ、くたびれた)でせっかく落ち着いた「指定席」からまた違う物語水準に読者は拉致される。丸かっこに入った文は「内的独白」であるということは読み進めばすぐにわかるのだけれど、それでも、物語が始まってからわずか4行で、読者は自分の現実から二段階引き離され、ついで同意を求められ、それから顔に息のかかるような至近距離から橋本治の身体的愁訴を聴かされる。読者はもう「そこ」から抜け出すことができない。こういうのを「力業(tour de force)」と言うのである。


 物語は「九十八歳になった橋本治」の独白として進む。彼の思考は身体的な不調のせいで繰り返し途絶する。クリストファー・ノーランの映画『メメント』は10分間しか記憶が持続しない主人公が経験する世界を主観的に描いた作品だが、それに少し似ている。「橋本治」は何かをしようとするのだが、それが実現するまでに(起き上がったり、杖につかまったりするのに)時間がかかるので、しばしば途中で自分が何をしようとしていたのか忘れてしまう。

 実存主義者はその昔「私が何ものであるかは、私が何を思ったかではなく、何を成し遂げたかによって決まる」ということを主張していた。その理説に即して言えば、「橋本治」は意志と行動の間のタイムラグがあり過ぎて、ほとんどの行為について、「やろうと思ったけれど、途中で自分が何をする気だったか忘れた」「なんか、どうでもよくなった」ので、実存主義的には何ものでもないことになる。でも、彼の「実存主義的な無」は無数の言葉によって埋め尽くされる。「やだな」「ああ、疲れた」「どうでもいいや」「知らねェけど」「なんだっけ」「だめだ。ふらふらする」「あーあ、懶い」「まだ眠い」。

 これらの「脱力」系の感想をエネルギー源にして、「九十八歳の橋本治」は思考する。そして、その傍が読者の「指定席」である以上、読者もそこにいるしかない。「橋本治」と一緒に眠り、一緒によろよろと歩き、一緒に転び、一緒に「ういろう」を喉に詰まらせ、一緒に回想するしかない。 老人は論理的思考力の「肺活量」が少ない。少し面倒な話になると「もう、どうでもいいや」という脱力感によって思考することを停止してしまう。でも、無意味なことにこだわりだすと異常な記憶力を発揮して、どこまでも細部に分け入る。


「はかま満緒がパーソナリティをやってるラジオ番組にゲストで呼ばれた時、『なにかリクエストを』と言われて、『美空ひばりの「菊五郎格子」』と答えた。はかま満緒は、掛かった曲を聴いて、『この頃の美空ひばりは一番いいね』としみじみ言ったので、私は『この人はいい人なのだな』と思った。(しかし、はかま満緒って誰だ? この時代の美空ひばりの曲は、なんでもかんでも『菊五郎格子』だな)『神田明神スチャラカチャン』の後は『チャンチキおかめの笛太鼓』なのだ。ああ、いい時代だった。


 しみじみといい時代だよすちゃらかちゃん」


 というふうに延々と続くのである。こういうのが「たまらん」という人にとっては極楽である。とりあえず、私にとっては極楽であった。たぶん、『妖星ゴラス』や「『アキラ』に出て来たミヤコ様」や「ヨーゼフK」のことを知らない読者も、誰も知らない固有名詞を連発する老人の饒舌にある種のグルーヴを感じることは止められないだろう。 というところで紙数が尽きた。私が一番笑ったのは、「橋本治全集」を編みたいと言ってやってきた「メロンの娘」が選んだ「橋本治の三冊」が『アストロモモンガ』と『恋するももんが』と『シネマほらセット』だったというところであった。橋本治自身も「さすがにこの三冊だけはいかなる批評家であってもその文学史的意義について語る言葉を持つまい」と自負していることを知って深く得心したのである。