孤独の発明 または言語の政治学

三浦雅士

3500円

「孤独」と「社交」のあいだで

浜崎洋介

 

三浦雅士氏は、人の「孤独」の歴史は、人類の歴史と同じだけ古いと言う。また、それゆえに文学、芸術、宗教、政治(国家)、経済(貨幣)などの社会的仕組み全ての起源には、人間の「孤独」が見出せるのだと言う。では、そもそも「孤独」は、いかにして生み出されたのか。また、いかにして社会を可能にしていったのか。本書は、そんな壮大な問いに答えようとして書き継がれた膨大な〈エッセイ=冒険的な試み〉としてある。
 まず、三浦氏が「孤独」の条件に想定するのは「目の発生」である。およそ五億四三〇〇万年前に視覚=光を獲得したと言われる生命は(三浦氏は、パーカー『眼の誕生│カンブリア紀大進化の謎を解く』を参照する)、その光によって、世界を俯瞰する「私」を出現させることになった。つまり、世界から自分を分かつ「距離」を獲得することになったのである。
 が、それでも、人間において「孤独」が生きられるには、もう一つの条件が必要だった。それが、およそ六万年前に人類が獲得したと言われる「言語」である。言語を獲得した人間は、距離をもって対象を眺めるだけではなく、それを眺めている自分までをも眺める力、つまり自己対象化(反省)の力を獲得したのだった。そのとき、人は単なる二人称的世界(私とあなたの世界)から、三人称的世界(私とあなたとの関係を眺める私の世界)へと足を滑り込ませながら、人間独自の意識を出現させることになる。つまり、自問自答する「内面」世界、人間の「孤独」な世界を開くことになったのである。
 それ以降、この「孤独の発明」を起点にして、様々な人間的営みが現れてくる。俯瞰する眼と俯瞰された世界との関係性自体を意識内在的に描き出そうとすれば、それは文学や思想の言葉となるだろうし、その俯瞰する眼そのものを彼方に投影すれば、そこには宗教的超越性(神の目、自己の魂、死後の世界)が立ち現れるだろう。あるいは、この俯瞰する眼を集団的な「支配力」に転化すれば、「言語の政治学」が生み出されることになり、また、そこに醸成された「信用」を交換の基盤に据えれば、それは貨幣経済を生み出す条件にもなるのである。三浦氏は、この多様な人間の営みを、まさに博引旁証│生物学の諸成果、言語学におけるマイケル・トマセロとチョムスキーの対比、小西甚一と大岡信の古典論、折口信夫と白川静の呪術論、天台本覚思想についての諸研究、ヘッセやリルケの文学、ジンメルからアナール学派まで│膨大な言説を渉猟しながら縷々述べていくことになる。
 が、それなら三浦氏の「社会哲学」は、淀みない透明さを湛えていると言うべきだろうか。おそらく、そうではない。三浦氏自身が、本書の「あとがき」に、「いまなお腑に落ちないことばかりである」と記す通り、この透明になり切れない分析のなかにこそ、言葉そのものの謎が、あるいは三浦氏の文学者としての誠実さが孕まれている。
 では、三浦氏の言葉は、どこで透明性と縁を切るのか。
 それは、三浦氏が「言語」の起源をめぐって議論を展開しようとする、その瞬間である。
 たとえば、〈言語=孤独〉の発生を語って、三浦氏は「言語もまた親が子を育てるという関係から生まれた」と言うが、しかし、それなら親子関係という自然の事実だけは、〈視覚=言語〉以前の場所で生きられていると言うべきではなかろうか。つまり、俯瞰する眼(言語│孤独)とは、それ以前の俯瞰できないもの(言語以前の交わり│信頼)との関係を、その条件に孕み持っているのではないかということである。むろん、その言語以前の領域を指し示してしまえば、それ自体が〈視覚=孤独〉の領域に回収されてしまうことになる。が、だからこそ言語の条件を語ることには困難が付き纏うのではなかったか。
 事実、三浦氏は、天台本覚思想が説く「山川草木悉皆成仏」という思想、松浦寿輝や中上健次が描く「世界との一体感」、ヘルダーリンやボードレールが語った「万物照応」、そして、ときに小林秀雄や折口信夫や井筒俊彦などが示した〈ほうとした気分=神秘主義〉を語りつつ、「言語によって意識化された俯瞰の政治学を、支えるのも壊すのも、この梵我一如感ではないか」(傍点引用者)と書くだろう。あるいはまた、「俯瞰の政治学」(自分を俯瞰=操作しながら他人を欺く政治学)を生きることによって『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』を書いたトーマス・マンに比して、見ることの距離を撥無する「大洋的な感情」を強調したロマン・ロランを対置してみせるだろう。つまり、三浦氏は、一方で〈視覚=言語〉こそが世界を開いたことを強調しつつ、しかし他方で、〈視覚=孤独〉の中に素直に納まってくれない〈自然との不可視な交わり〉の手触りをも示唆し続けるのである。
 その点、本書の最終章は象徴的である。「孤独の発明」について記述を進めて来たその先で、しかし三浦氏が見つめるのは、「社交する人間の『うたげ』」(第十五章)なのだ。本書の中核的アイデアを提供している大岡信の言葉│本書は繰り返し『うたげと孤心』の歌論に立ち返る│を引きながら三浦氏が書きつけるのは、「出発点としての自己がじつはすでに〔他者に│引用者〕媒介されているものなのだという認識」であり、また、「面面相対して二者一体となり、人格の相承を行う」(大岡信)、その瞬間の経験なのである。
 しかし、だとすればやはり、他者を距離化する〈言語=孤心〉の能動性は、必ず世界との距離を撥無する〈社交=うたげ〉の受動性に媒介されていると言うべきではなかろうか。〈見える領域〉は、必ず〈見えない領域〉に媒介されていると言うべきではないか。
 本書の〈エッセイ=冒険的な試み〉によって読者が導かれるのは、そんな「見えるものと見えないもの」(メルロ=ポンティ)とが絡み合う「あわい」の境域である。
(講談社刊・税別定価三五〇〇円)
「孤独の発明または言語の政治学」
三浦雅士
浜崎洋介
「孤独」と「社交」のあいだで

 三浦雅士氏は、人の「孤独」の歴史は、人類の歴史と同じだけ古いと言う。また、それゆえに文学、芸術、宗教、政治(国家)、経済(貨幣)などの社会的仕組み全ての起源には、人間の「孤独」が見出せるのだと言う。では、そもそも「孤独」は、いかにして生み出されたのか。また、いかにして社会を可能にしていったのか。本書は、そんな壮大な問いに答えようとして書き継がれた膨大な〈エッセイ=冒険的な試み〉としてある。 

 まず、三浦氏が「孤独」の条件に想定するのは「目の発生」である。およそ五億四三〇〇万年前に視覚=光を獲得したと言われる生命は(三浦氏は、パーカー『眼の誕生│カンブリア紀大進化の謎を解く』を参照する)、その光によって、世界を俯瞰する「私」を出現させることになった。つまり、世界から自分を分かつ「距離」を獲得することになったのである。 

 が、それでも、人間において「孤独」が生きられるには、もう一つの条件が必要だった。それが、およそ六万年前に人類が獲得したと言われる「言語」である。言語を獲得した人間は、距離をもって対象を眺めるだけではなく、それを眺めている自分までをも眺める力、つまり自己対象化(反省)の力を獲得したのだった。そのとき、人は単なる二人称的世界(私とあなたの世界)から、三人称的世界(私とあなたとの関係を眺める私の世界)へと足を滑り込ませながら、人間独自の意識を出現させることになる。つまり、自問自答する「内面」世界、人間の「孤独」な世界を開くことになったのである。 

 それ以降、この「孤独の発明」を起点にして、様々な人間的営みが現れてくる。俯瞰する眼と俯瞰された世界との関係性自体を意識内在的に描き出そうとすれば、それは文学や思想の言葉となるだろうし、その俯瞰する眼そのものを彼方に投影すれば、そこには宗教的超越性(神の目、自己の魂、死後の世界)が立ち現れるだろう。あるいは、この俯瞰する眼を集団的な「支配力」に転化すれば、「言語の政治学」が生み出されることになり、また、そこに醸成された「信用」を交換の基盤に据えれば、それは貨幣経済を生み出す条件にもなるのである。三浦氏は、この多様な人間の営みを、まさに博引旁証ーー生物学の諸成果、言語学におけるマイケル・トマセロとチョムスキーの対比、小西甚一と大岡信の古典論、折口信夫と白川静の呪術論、天台本覚思想についての諸研究、ヘッセやリルケの文学、ジンメルからアナール学派までーー膨大な言説を渉猟しながら縷々述べていくことになる。 

 が、それなら三浦氏の「社会哲学」は、淀みない透明さを湛えていると言うべきだろうか。おそらく、そうではない。三浦氏自身が、本書の「あとがき」に、「いまなお腑に落ちないことばかりである」と記す通り、この透明になり切れない分析のなかにこそ、言葉そのものの謎が、あるいは三浦氏の文学者としての誠実さが孕まれている。 

 では、三浦氏の言葉は、どこで透明性と縁を切るのか。 

 それは、三浦氏が「言語」の起源をめぐって議論を展開しようとする、その瞬間である。 

 たとえば、〈言語=孤独〉の発生を語って、三浦氏は「言語もまた親が子を育てるという関係から生まれた」と言うが、しかし、それなら親子関係という自然の事実だけは、〈視覚=言語〉以前の場所で生きられていると言うべきではなかろうか。つまり、俯瞰する眼(言語│孤独)とは、それ以前の俯瞰できないもの(言語以前の交わり│信頼)との関係を、その条件に孕み持っているのではないかということである。むろん、その言語以前の領域を指し示してしまえば、それ自体が〈視覚=孤独〉の領域に回収されてしまうことになる。が、だからこそ言語の条件を語ることには困難が付き纏うのではなかったか。 

 事実、三浦氏は、天台本覚思想が説く「山川草木悉皆成仏」という思想、松浦寿輝や中上健次が描く「世界との一体感」、ヘルダーリンやボードレールが語った「万物照応」、そして、ときに小林秀雄や折口信夫や井筒俊彦などが示した〈ほうとした気分=神秘主義〉を語りつつ、「言語によって意識化された俯瞰の政治学を、支えるのも壊すのも、この梵我一如感ではないか」(傍点引用者)と書くだろう。あるいはまた、「俯瞰の政治学」(自分を俯瞰=操作しながら他人を欺く政治学)を生きることによって『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』を書いたトーマス・マンに比して、見ることの距離を撥無する「大洋的な感情」を強調したロマン・ロランを対置してみせるだろう。つまり、三浦氏は、一方で〈視覚=言語〉こそが世界を開いたことを強調しつつ、しかし他方で、〈視覚=孤独〉の中に素直に納まってくれない〈自然との不可視な交わり〉の手触りをも示唆し続けるのである。 

 その点、本書の最終章は象徴的である。「孤独の発明」について記述を進めて来たその先で、しかし三浦氏が見つめるのは、「社交する人間の『うたげ』」(第十五章)なのだ。本書の中核的アイデアを提供している大岡信の言葉│本書は繰り返し『うたげと孤心』の歌論に立ち返る│を引きながら三浦氏が書きつけるのは、「出発点としての自己がじつはすでに〔他者に│引用者〕媒介されているものなのだという認識」であり、また、「面面相対して二者一体となり、人格の相承を行う」(大岡信)、その瞬間の経験なのである。 

 しかし、だとすればやはり、他者を距離化する〈言語=孤心〉の能動性は、必ず世界との距離を撥無する〈社交=うたげ〉の受動性に媒介されていると言うべきではなかろうか。〈見える領域〉は、必ず〈見えない領域〉に媒介されていると言うべきではないか。 

 本書の〈エッセイ=冒険的な試み〉によって読者が導かれるのは、そんな「見えるものと見えないもの」(メルロ=ポンティ)とが絡み合う「あわい」の境域である。