大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人

大江健三郎、柄谷行人

1800円

小説的対談

いとうせいこう

 

 本書にまとめられた三つの対談を、私もぼんやりと覚えている。まさか話し合う時が来るとは思っていなかった二人である。時代の雪どけのような印象が当時確かにあった。文壇の中にいない私でもそうだったのだから、日本の文学界で大きな注目を浴びただろう。
 と同時に、対談は奇異な沈黙を呼んだ気がする。なぜその時期に二人は言葉を交わさねばならなかったのか、周囲の者にその動機がいまひとつ伝わっていなかっただろうことが、今回の単行本化でむしろよくわかる。
 前書きで柄谷行人が書いている通り、対談の始まりは湾岸戦争から三年後のことだった。アメリカが地位を賭けた暴挙に出たことに対して、日本では反対を表明する作家の共同署名について意見が分かれた。すでにこの時点で、日本の文壇は機能不全を起こしていた。海の向こうでは戦争が起ころうとしている時、日本では文学者のふるまいがさも重大なことのように語られていたのだから。
 もちろん、署名をしたかしなかったかが問題なのではない。世界に真向かって考え、さらには言葉を発し、あるいは沈黙の下で思考を醸成させることが作家の大事な仕事だったろうと思う。
 そして反核署名以来、署名をするかどうか注目された大江健三郎はこの時、個人的発言の道を選んだ。ただし、世界に真向かって思考した結果そうなったことは、その後の発言の数々でよくわかる。
 おそらくこの時、柄谷行人は大江健三郎の中にある「戦前の思考」、大江が年来持ち来たった独特の怯えからくる真摯な、ほとんど強迫観念のような破滅への恐れをよく理解したのではないだろうか。同じ一九九四年、柄谷は『〈戦前〉の思考』を出版した。そして、そのタイミングで二人は対談を始めたのだ。
 私は翌一九九五年が日本にとって二〇世紀の終わりだと考えている。年の初めには阪神・淡路大震災があり、復興に乗じた土建社会が再び世を席巻し始め、神経質なほどのセキュリティ社会、そして他者へのクレーム社会への道筋が開く。と同時に、携帯電話が普及し始め、コミュニケーションの質が一気に変わる。かつて中上健次も言った通り、「小説が書きにくく」なった。人が出会い損ねるような機会が消滅するからだ。また、現在の強権社会を形成する基盤である小選挙区比例代表並立制は、前年に公職選挙法の改正により導入され、一九九六年に実施された。
 同じように、大江健三郎と柄谷行人の対談も一九九五年を境にして緊急に行われ、私たちは茫然とそれを読んだのである。だが肝心の〝世界の終わり(あるいは自壊への反復の始まり)/文学の終わり〟をひしひしと感じなかった者は、先に書いたようにとまどうばかりだった。もちろん今はわかる。今こそ私たちは彼らが見ていた惨憺たる政治状況、そして書かれる動機を失って微細化した文学の姿を直視させられている。
 さてしかし文学が終わったあと、彼らは世界の退屈な収束にどう真向かったのか。大江はいったん最後の小説としていた『燃えあがる緑の木』(この小説が完結したのも一九九五年である。つまり大江は自らの終わりを一九九五年と決めていたことになる)のあと、翌一九九六年に「後期の仕事(レイト・ワーク)」を書き始め、そこからやがて『水死』のような傑作を生み出しながら、一方で沖縄戦裁判に苦しく力を尽くし、二〇一一年の東日本大震災での福島第一原発事故後の社会運動の先頭に立った。私たちはそれら〝世界の終わり/文学の終わり〟以後の大江健三郎の偉大な健闘と消耗を目の当たりにしている。
 一方、柄谷行人は『トランスクリティーク カントとマルクス』を出版した二〇〇〇年以降、NAMという社会運動を立ち上げ、地域通貨Qを流通させようとしたが活動は早い時期に停止して、カント読解の方に(しかも世界と地域を「交換」という視点から四象限に分けて考える)向かい、二〇一一年の大震災を受けて、さかんにデモに出るようになり、やがて新宿アルタ前で「デモをすることによって社会を変えることは出来る。デモをすることによって、日本の社会は人がデモをする社会に変わるからです」との言葉を残す。
 ちなみにこのデモの夜、柄谷の数組前に音楽的な演説をし終えていた私は、彼がまるでガナることなく、きわめて冷静に、というよりむしろ小さい声でしゃべるのに驚いた。それは社会を変えるカリスマのスピーチというより、文章が正確に伝わること以外、何も考えていないように見えた。熱情を徹底的に避ける演説。それがデモへのイメージでよく語られがちな暴力性をあらかじめ抜き去っておく手段だったのか、それとも六〇年代においてもそうだったのか、いまだに考えることがある。少なくとも絶望も希望も捨象して、ただやるべきことを行う。そういう人間の、あれは言葉の温度であった。
 ともかく、彼らは終わりから考え、終わりから行動した。その後なお、ネット上にはびこる絶望ゆえの凶悪な表現にも、少ない希望に過度に期待しての虚偽にも頼ることなく、十二分に活動しているのである。
 考えてみて欲しい。すでに彼らがひとつの区切り、もしくは終わりを看て取った世界、および文学が、自らのあるべき時、ないしは死を認めずにゾンビのように跋扈し、日々ただひたすら劣化していく様子を眼前にしながら、終わりをよく知っている彼らばかりが、社会の改革の先頭に立たされる不条理を。
 けれどすでに大江は対談でこう述べている。「両義的な二つのゴールがあるとして、その間にひもを渡して、その上で曲芸みたいなことをしている猿をイメージに浮かべます。その猿の態度がヒューモアの態度で、それが小説の淵源であると僕は思っています」
 であるならば、彼ら二人の対談こそ小説的なのであり、それ以後の彼らのあり方も、終わったはずの小説のようだ。皮肉でユーモラスで引き裂かれたままで存在し続ける運動、文学の中でも飛び抜けて自由で複層的で自己破壊を恐れず呼び込む事故的な手段。
 少なくとも私たちは、その小説的精神が自らの終わりをのぞき込んでいる姿を本書によって知る。

 本書にまとめられた三つの対談を、私もぼんやりと覚えている。まさか話し合う時が来るとは思っていなかった二人である。時代の雪どけのような印象が当時確かにあった。文壇の中にいない私でもそうだったのだから、日本の文学界で大きな注目を浴びただろう。 

 と同時に、対談は奇異な沈黙を呼んだ気がする。なぜその時期に二人は言葉を交わさねばならなかったのか、周囲の者にその動機がいまひとつ伝わっていなかっただろうことが、今回の単行本化でむしろよくわかる。 

 前書きで柄谷行人が書いている通り、対談の始まりは湾岸戦争から三年後のことだった。アメリカが地位を賭けた暴挙に出たことに対して、日本では反対を表明する作家の共同署名について意見が分かれた。すでにこの時点で、日本の文壇は機能不全を起こしていた。海の向こうでは戦争が起ころうとしている時、日本では文学者のふるまいがさも重大なことのように語られていたのだから。 

 もちろん、署名をしたかしなかったかが問題なのではない。世界に真向かって考え、さらには言葉を発し、あるいは沈黙の下で思考を醸成させることが作家の大事な仕事だったろうと思う。

 そして反核署名以来、署名をするかどうか注目された大江健三郎はこの時、個人的発言の道を選んだ。ただし、世界に真向かって思考した結果そうなったことは、その後の発言の数々でよくわかる。

 おそらくこの時、柄谷行人は大江健三郎の中にある「戦前の思考」、大江が年来持ち来たった独特の怯えからくる真摯な、ほとんど強迫観念のような破滅への恐れをよく理解したのではないだろうか。同じ一九九四年、柄谷は『〈戦前〉の思考』を出版した。そして、そのタイミングで二人は対談を始めたのだ。

 私は翌一九九五年が日本にとって二〇世紀の終わりだと考えている。年の初めには阪神・淡路大震災があり、復興に乗じた土建社会が再び世を席巻し始め、神経質なほどのセキュリティ社会、そして他者へのクレーム社会への道筋が開く。と同時に、携帯電話が普及し始め、コミュニケーションの質が一気に変わる。かつて中上健次も言った通り、「小説が書きにくく」なった。人が出会い損ねるような機会が消滅するからだ。また、現在の強権社会を形成する基盤である小選挙区比例代表並立制は、前年に公職選挙法の改正により導入され、一九九六年に実施された。

 同じように、大江健三郎と柄谷行人の対談も一九九五年を境にして緊急に行われ、私たちは茫然とそれを読んだのである。だが肝心の〝世界の終わり(あるいは自壊への反復の始まり)/文学の終わり〟をひしひしと感じなかった者は、先に書いたようにとまどうばかりだった。もちろん今はわかる。今こそ私たちは彼らが見ていた惨憺たる政治状況、そして書かれる動機を失って微細化した文学の姿を直視させられている。

 さてしかし文学が終わったあと、彼らは世界の退屈な収束にどう真向かったのか。大江はいったん最後の小説としていた『燃えあがる緑の木』(この小説が完結したのも一九九五年である。つまり大江は自らの終わりを一九九五年と決めていたことになる)のあと、翌一九九六年に「後期の仕事(レイト・ワーク)」を書き始め、そこからやがて『水死』のような傑作を生み出しながら、一方で沖縄戦裁判に苦しく力を尽くし、二〇一一年の東日本大震災での福島第一原発事故後の社会運動の先頭に立った。私たちはそれら〝世界の終わり/文学の終わり〟以後の大江健三郎の偉大な健闘と消耗を目の当たりにしている。

 一方、柄谷行人は『トランスクリティーク カントとマルクス』を出版した二〇〇〇年以降、NAMという社会運動を立ち上げ、地域通貨Qを流通させようとしたが活動は早い時期に停止して、カント読解の方に(しかも世界と地域を「交換」という視点から四象限に分けて考える)向かい、二〇一一年の大震災を受けて、さかんにデモに出るようになり、やがて新宿アルタ前で「デモをすることによって社会を変えることは出来る。デモをすることによって、日本の社会は人がデモをする社会に変わるからです」との言葉を残す。

 ちなみにこのデモの夜、柄谷の数組前に音楽的な演説をし終えていた私は、彼がまるでガナることなく、きわめて冷静に、というよりむしろ小さい声でしゃべるのに驚いた。それは社会を変えるカリスマのスピーチというより、文章が正確に伝わること以外、何も考えていないように見えた。熱情を徹底的に避ける演説。それがデモへのイメージでよく語られがちな暴力性をあらかじめ抜き去っておく手段だったのか、それとも六〇年代においてもそうだったのか、いまだに考えることがある。少なくとも絶望も希望も捨象して、ただやるべきことを行う。そういう人間の、あれは言葉の温度であった。

 ともかく、彼らは終わりから考え、終わりから行動した。その後なお、ネット上にはびこる絶望ゆえの凶悪な表現にも、少ない希望に過度に期待しての虚偽にも頼ることなく、十二分に活動しているのである。

 考えてみて欲しい。すでに彼らがひとつの区切り、もしくは終わりを看て取った世界、および文学が、自らのあるべき時、ないしは死を認めずにゾンビのように跋扈し、日々ただひたすら劣化していく様子を眼前にしながら、終わりをよく知っている彼らばかりが、社会の改革の先頭に立たされる不条理を。

 けれどすでに大江は対談でこう述べている。「両義的な二つのゴールがあるとして、その間にひもを渡して、その上で曲芸みたいなことをしている猿をイメージに浮かべます。その猿の態度がヒューモアの態度で、それが小説の淵源であると僕は思っています」

 であるならば、彼ら二人の対談こそ小説的なのであり、それ以後の彼らのあり方も、終わったはずの小説のようだ。皮肉でユーモラスで引き裂かれたままで存在し続ける運動、文学の中でも飛び抜けて自由で複層的で自己破壊を恐れず呼び込む事故的な手段。

 少なくとも私たちは、その小説的精神が自らの終わりをのぞき込んでいる姿を本書によって知る。