サーラレーオ

新庄耕

1500円

ブラック企業小説の旗手が描く最低最悪男

石井千湖

 新庄耕といえばブラック企業。

 すばる文学賞を受賞したデビュー作の『狭小邸宅』では、不動産屋の営業マンが長時間労働と上司のパワハラに自尊心を破壊されながら、異常な環境に適応していく。第二作『ニューカルマ』では、リストラの危機に直面した大手電機メーカー社員が、ネットワークビジネスの闇に引きずり込まれる。近作の『カトク 過重労働撲滅特別対策班』は、大企業の過重労働を特別捜査する東京労働局「カトク」班の話。いずれも仕事の描写にリアリティがあり、個人を圧しつぶす組織の恐ろしさが記憶に残る。最新作の『サーラレーオ』は、初めてどこにも所属していない男が主人公だ。

 カセはタイのバンコクに住む日本人。ある日、彼のスマートフォンに地元が同じ横浜で十代のほとんどをつるんで遊んでいたマサからメッセージが届く。出張でバンコクに来ているので都合があえば食事でもどうかという誘いだった。懐かしい友に会いたい気持ちはあったのに、カセは〈いまの自分の境遇を思えば、それもはばかられる〉と断る。名門私立大学を出て世界的に知られる自動車メーカーに勤めるマサと、高校を中退して定職をもたず外国人に大麻を売って日銭を稼いでいる自分を比べてしまったからだ。その後出かけたクラブで小遣いをせしめるために声をかけた観光客が医大生と知ると〈すごいねと返しつつ、憮然とした眼をむけ〉る。大手企業の社員と医者の卵。劣等感を抱く対象がわかりやすい。

 カセは粗暴で激昂しやすいけれど、妙に真面目な一面がある。商品として仕入れる大麻の質にはこだわるし、同棲する恋人のアナンヤが無断で彼の金を持ち出して弟にバイクを買い与えたことを知ると、こんなふうにぼやく。〈カセには、ときどきアナンヤの感覚についていけなくなることがある。金銭ひとつとっても、貯金の概念というものが欠落していて、ほしいものがあれば後先考えず借金をしてでも買ってしまう〉。犯罪者のくせに〈貯金の概念〉を気にするところがおもしろい。サーラレーオとはタイ語で「最低最悪の奴」という意味らしいが、悪党としては小粒に見える。そんなうだつのあがらない男の過去が徐々に明らかになっていく。

 タイに逃げてくる前、カセは岩手の山奥で大麻を栽培していた。少年時代に入った鑑別所で同部屋だったアリが、大量の種を持っていたのだ。クリスマスツリーに似ているというバッズ(花芽)の形状、収穫してパック詰めするまでの工程が細かく語られる。できあがったガンジャ(乾燥大麻)をアリと一緒にボングと呼ばれる水パイプで吸うくだりの記述も詳しい。

〈カセはボングを受け取り、吸い口に口元を密着させた。空気穴をおさえ、ライターで火皿のガンジャに火をともしながら、吸い込む。こぽこぽと籠もった水音が立ち、ボングの中に紫煙が充満してくる。十分に煙がたまったところで、空気穴を離し、一気に肺奥へ送り込んだ〉〈カセはコップの水道水を口にふくんだ。ほのかな甘みが感じられ、水の粒子が味蕾の突起ひとつひとつをつつみこむようになぞり、喉元や食道の襞を軽快に駆け抜けていく様がありありと実感できる。この世のものとは思えず、水を飲む手が止まらなかった〉。読んでいるといっぱしの大麻通になった気分が味わえるくらい説明が巧みだ。

 トリップしたカセは、いつのまにか裸になっていたアリに下着を脱がされる。男同士の絡みは生々しい。ふたりで育てた高品質の大麻を楽しみ、ときどき知り合いに売る、刹那的で気安い生活。世界を放浪するヒッピーのアリはそれで満足していたが、カセは一攫千金を目論む。〈これまで自分をコケにしてきたやつらを見返さなければならなかった〉から。カセは特別少年院時代の先輩・ジンを介して大麻を売りさばき、七千万円近い大金を手に入れるのだが……。

 もともとカセは、医者である父親の後継者として期待をかけられることが嫌で非行に走ったというクラシックな不良少年だ。お坊ちゃん育ちならではの脇の甘さがあるのか、裏社会で手広く商売を営むジンにいいように利用され、仲間のアリや彼が連れてきたジャンキーの女もコントロールできず、結局はすべてを失う。取り柄は逃げ足の速さくらいしかない。やっぱり悪事には向いてないのでは、と思う。

 しかし、カセはバンコクへ逃亡してからも危険な道を走り続ける。努力して成功したまっとうな人を羨みつつ、ありのままの自分でほしいものをつかもうとする。おそらくは、自由であるために。どうしようもないダメ男だが、そのあきらめの悪さが憎めない。

 なんといっても印象深いのは、金を借りるために会ったマサにバンコクの街を案内するくだりだ。三島由紀夫の『暁の寺』の舞台になったワットアルンの夕焼け、ゴールデンシャワーという黄色い花が枝葉を広げるオープンカフェなど、活気に満ちていながら、どこか現実離れした都市の風景が美しい。息をのむほどの絶景が三百六十度をとりかこみ、空に浮かんでいるみたいに感じるというルーフトップバーは行ってみたくなる。

 終盤、アナンヤの通報によって、追われる身になったカセは、どこともしれない闇の中へ走り去っていく。居場所をなくして日本からタイへ流れ着いた男が、自ら退路を断って、さらに深いどん底に転落する。爽快とはいえない物語だが、不思議と解放感がある。新庄耕はブラック企業小説だけではない。一定の評価を得たジャンルから逸脱して、新たな境地を切り拓いた一冊だ。

本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。
 今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。
「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。
 主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。
 じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。
 事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。
 小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。
 アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。
 それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。
(講談社刊・税別定価一七〇〇円)本書は二つの中篇小説を収める。表題作の「蹴爪」と「クイーンズ・ロード・フィールド」。おそらくフィリピンの、ある小さな島で繰り広げられる闘鶏を生業とする父親と、その二人の息子の確執を描いた魅力的な小説「蹴爪」については、ここではあえて触れない。この小説に書かれている、主人公ベニグノらが作る子どもたちの共同体(暴力が支配する)は、著者・水原涼の、現在まで続くリアルな主題だと思うが、別の機会に。ここでは「クイーンズ・ロード・フィールド」を取り上げる。なぜか。サッカー小説だからである。そして、評者が大のサッカー好きだという以上に、この小説はサッカーを介して、世界に触れているからでもある。 今年はワールドカップの年だった。ベスト16での、日本代表のベルギー相手の惜敗を覚えている人もまだたくさんいるだろう。日本代表が帰国した直後、日本サッカー協会の幹部からは、サッカーを文化にしたいといった趣旨の発言があった。私はその言葉を耳にして、彼らの意図とはまったく別のことを考えた。水原涼や津村記久子の小説がもっと広く読まれれば、「サッカー文化」とやらも裾野をひろげることができるだろうに、と。「クイーンズ・ロード・フィールド」の舞台は、スコットランドの田舎町。「ケルト人が作ったとかいう古い城の形骸だけが誇りの田舎町」と作中にある。主な登場人物は四人。語り手の「ぼく」(クレイグ)と、ロベルト、アシュリー、そして紅一点のモリー。「ぼく」たちは十三歳のときに出会った。そのころ、「ぼく」とアシュリーはバンドを組んでいて、ロベルトはイタリア人のような名前に悩みながらも、サッカーに打ち込んでいた。モリーは赤ん坊のころに足を切断してしまった妹ジャスミンの面倒をみながら、恋人をとっかえひっかえしていた。 主人公たちが生きているのは、出会いからすでに二十六年の時間が経過した現在。「ぼく」はモリーと結婚し、アリスという娘もいる。ロベルトもアシュリーも健在。みんな三十九歳になっている。むろん小さくない不幸は、主にクレイグの周辺で起こるのだが、そのあたりは小説を読んでもらおう。物語は、十三歳で出会った彼らがどんな成長を遂げて現在まで生きて来たかを、幾つかのエピソードを点描しながら進む。そのとき、中心に坐っているのがサッカーだ。すなわち彼らの町のクラブ、「キャッスル・カルドニアン・FC」である。略して「カルドニアン」と呼ばれるクラブは、スコットランド・リーグの三部。毎年、残留争いを演じてはしぶとく生き残る。みんなはそれぞれ温度差がありつつも、カルドニアンを愛している。サポーターの中心人物になったり、スタジアムには行かないけれどテレビ観戦だけは欠かさなかったり……。そんななか、彼らは事件を起こす。アシュリーはクラブで唯一の黒人選手に向かって、バナナを投げ入れてしまう。モリーは、人のいなくなったスタジアムに入り込み、照明に攀じ登った挙句、そこに「asshole」とリップで落書きする。ロベルトは試合中、全裸になってフィールドを突っ走ってしまう。 じゃ、「ぼく」であるクレイグは? どんな爪痕をカルドニアンのスタジアムに残すことができるのか? ここが小説の肝なので、これ以上は言葉を慎むのが礼儀だろう(ラストシーンでこの「爪痕」は明かされる……)。 事件の中で、私が注目したいのは、アシュリーがクラブの右サイドバック、ブランドンに向かってバナナを投げ入れたこと。スコットランドの北の港町で、アシュリーとブランドンはたった二人しかいない若い黒人だった。ではなぜアシュリーはブランドンに向かってバナナを投げたのか? それが人種差別行為だと十分にわかっていたのに? 小説の中で、アシュリーはその理由を語る。アシュリーの事件以前に、ブラジル代表の黒人選手にもバナナが投げ入れられたことがあった。スペインでの試合。だがその選手は何事でもないようにバナナを拾い上げて食べ、栄養補給でもしたかのようにプレーを再開した。そのことが契機となり、世界中でサッカー界の人種差別に抗するべく、バナナを食べる行為が拡散した。だから、ブランドンにも食べて欲しかったのだ、と。 小説を少し離れるならば、この事件は事実だ。2014年4月、スペインの名門クラブ、FCバルセロナに所属するブラジル代表選手・ダニエウ・アウベスがコーナーキックを蹴ろうとしたとき、バナナが投げ込まれ、彼は何食わぬ顔をしてそれを拾い上げて食べ、ボールを蹴った。その行為が人種差別に抗議するユーモアとして世界中に拡散したのだ。水原はそのことを踏まえている。 アシュリーの行為は倒錯している。ピッチ上の黒人選手に対してバナナを投げ入れる行為そのものが明白な人種差別行為にあたる。だからユーモアで抗すべくバナナを食べて欲しくてバナナを投げ入れる彼の行為は、どれほど無邪気であろうと処罰される。じっさい小説の中で、アシュリーはスタジアムに出入り禁止になる。現実問題として、黒人選手に向けて、黒人サポーターがバナナを投げることはあり得ない。だが、だからこそ小説に書いてみたのだ、とも考えられる。つまり、フィクションでしか書けないこととして、アシュリーはバナナを投げたのではないか。 それと、もう一つ、カルドニアンはつねに三部に低迷するクラブだが、入れ替え戦で負けたことがないのが自慢だ。小説は終盤で、最終節の試合を取り上げるが、それは、今年の収穫、津村記久子『ディス・イズ・ザ・デイ』を思わせる。津村作品でも、最終節が主な舞台として選ばれているのだ。私が言いたいのは、サッカー小説の名作は洋の東西を問わない、ということ。そして水原の小説に興味をそそられ、スコットランド・サッカーに踏み込みたいとお考えの向きには、小笠原博毅の『セルティック・ファンダム』をそっと差し出したい、ということである。(講談社刊・税別定価一七〇〇円)