サーラレーオ

新庄耕

1650円(税込)

ブラック企業小説の旗手が描く最低最悪男

石井千湖

 新庄耕といえばブラック企業。

 すばる文学賞を受賞したデビュー作の『狭小邸宅』では、不動産屋の営業マンが長時間労働と上司のパワハラに自尊心を破壊されながら、異常な環境に適応していく。第二作『ニューカルマ』では、リストラの危機に直面した大手電機メーカー社員が、ネットワークビジネスの闇に引きずり込まれる。近作の『カトク 過重労働撲滅特別対策班』は、大企業の過重労働を特別捜査する東京労働局「カトク」班の話。いずれも仕事の描写にリアリティがあり、個人を圧しつぶす組織の恐ろしさが記憶に残る。最新作の『サーラレーオ』は、初めてどこにも所属していない男が主人公だ。

 カセはタイのバンコクに住む日本人。ある日、彼のスマートフォンに地元が同じ横浜で十代のほとんどをつるんで遊んでいたマサからメッセージが届く。出張でバンコクに来ているので都合があえば食事でもどうかという誘いだった。懐かしい友に会いたい気持ちはあったのに、カセは〈いまの自分の境遇を思えば、それもはばかられる〉と断る。名門私立大学を出て世界的に知られる自動車メーカーに勤めるマサと、高校を中退して定職をもたず外国人に大麻を売って日銭を稼いでいる自分を比べてしまったからだ。その後出かけたクラブで小遣いをせしめるために声をかけた観光客が医大生と知ると〈すごいねと返しつつ、憮然とした眼をむけ〉る。大手企業の社員と医者の卵。劣等感を抱く対象がわかりやすい。

 カセは粗暴で激昂しやすいけれど、妙に真面目な一面がある。商品として仕入れる大麻の質にはこだわるし、同棲する恋人のアナンヤが無断で彼の金を持ち出して弟にバイクを買い与えたことを知ると、こんなふうにぼやく。〈カセには、ときどきアナンヤの感覚についていけなくなることがある。金銭ひとつとっても、貯金の概念というものが欠落していて、ほしいものがあれば後先考えず借金をしてでも買ってしまう〉。犯罪者のくせに〈貯金の概念〉を気にするところがおもしろい。サーラレーオとはタイ語で「最低最悪の奴」という意味らしいが、悪党としては小粒に見える。そんなうだつのあがらない男の過去が徐々に明らかになっていく。

 タイに逃げてくる前、カセは岩手の山奥で大麻を栽培していた。少年時代に入った鑑別所で同部屋だったアリが、大量の種を持っていたのだ。クリスマスツリーに似ているというバッズ(花芽)の形状、収穫してパック詰めするまでの工程が細かく語られる。できあがったガンジャ(乾燥大麻)をアリと一緒にボングと呼ばれる水パイプで吸うくだりの記述も詳しい。

〈カセはボングを受け取り、吸い口に口元を密着させた。空気穴をおさえ、ライターで火皿のガンジャに火をともしながら、吸い込む。こぽこぽと籠もった水音が立ち、ボングの中に紫煙が充満してくる。十分に煙がたまったところで、空気穴を離し、一気に肺奥へ送り込んだ〉〈カセはコップの水道水を口にふくんだ。ほのかな甘みが感じられ、水の粒子が味蕾の突起ひとつひとつをつつみこむようになぞり、喉元や食道の襞を軽快に駆け抜けていく様がありありと実感できる。この世のものとは思えず、水を飲む手が止まらなかった〉。読んでいるといっぱしの大麻通になった気分が味わえるくらい説明が巧みだ。

 トリップしたカセは、いつのまにか裸になっていたアリに下着を脱がされる。男同士の絡みは生々しい。ふたりで育てた高品質の大麻を楽しみ、ときどき知り合いに売る、刹那的で気安い生活。世界を放浪するヒッピーのアリはそれで満足していたが、カセは一攫千金を目論む。〈これまで自分をコケにしてきたやつらを見返さなければならなかった〉から。カセは特別少年院時代の先輩・ジンを介して大麻を売りさばき、七千万円近い大金を手に入れるのだが……。

 もともとカセは、医者である父親の後継者として期待をかけられることが嫌で非行に走ったというクラシックな不良少年だ。お坊ちゃん育ちならではの脇の甘さがあるのか、裏社会で手広く商売を営むジンにいいように利用され、仲間のアリや彼が連れてきたジャンキーの女もコントロールできず、結局はすべてを失う。取り柄は逃げ足の速さくらいしかない。やっぱり悪事には向いてないのでは、と思う。

 しかし、カセはバンコクへ逃亡してからも危険な道を走り続ける。努力して成功したまっとうな人を羨みつつ、ありのままの自分でほしいものをつかもうとする。おそらくは、自由であるために。どうしようもないダメ男だが、そのあきらめの悪さが憎めない。

 なんといっても印象深いのは、金を借りるために会ったマサにバンコクの街を案内するくだりだ。三島由紀夫の『暁の寺』の舞台になったワットアルンの夕焼け、ゴールデンシャワーという黄色い花が枝葉を広げるオープンカフェなど、活気に満ちていながら、どこか現実離れした都市の風景が美しい。息をのむほどの絶景が三百六十度をとりかこみ、空に浮かんでいるみたいに感じるというルーフトップバーは行ってみたくなる。

 終盤、アナンヤの通報によって、追われる身になったカセは、どこともしれない闇の中へ走り去っていく。居場所をなくして日本からタイへ流れ着いた男が、自ら退路を断って、さらに深いどん底に転落する。爽快とはいえない物語だが、不思議と解放感がある。新庄耕はブラック企業小説だけではない。一定の評価を得たジャンルから逸脱して、新たな境地を切り拓いた一冊だ。